ムーアズ殺人事件とは、イギリスのイングランド北西部、サドルワース・ムーア(現グレーター・マンチェスター)やその周辺で起きた連続殺人事件だ。
犠牲者は10歳から17歳までの少年少女5人。彼らのうち少なくとも4人は性的なものも含む暴行を受けた後に殺害され、遺体は荒野に埋められていた。
容疑者として捕まったのは、イアン・ブレイディとマイラ・ヒンドリー。2人は恋人同士だった。
この事件は犯人が被害者の遺体をサドルワース・ムーアという荒野(ムーア)に埋めていたことから、ムーアズ殺人事件と呼ばれている。
今回はイギリスを震撼させた英国最凶ともいわれるムーアズ殺人事件について、詳しく解説していこう。
イアン・ブレイディとマイラ・ヒンドリー
イアン・ブレイディ
犯人の1人であるイアン・ブレイディは、1938年1月2日、スコットランドのグラスゴーにあるスラム街ゴーバルズで、喫茶店のウェイトレスをしていた母の元に私生児として生まれた。
イアンの母は経済的な理由によって、赤ん坊のイアンを知人の家に養子に出した。
養父母の元で育ったイアンは度を越えた癇癪持ちに育ち、思い通りにいかないと怒り狂って自ら壁に頭を打ち付けるような子供だったという。
イアンの異常性は、自分が養父母の実子ではないことを理解するにつれさらに歪んでいった。顔や頭は悪くなく、学校での成績は良かった。
13歳頃から盗みに手を出し始めたイアンは、わずか10代半ばでアルコール依存症に陥り、問題を起こして何度も警察に捕まったが反省などしなかった。イアン本人は反論しているが、若き日の彼の趣味は小動物の虐待だったと逮捕当時のマスコミは騒ぎ立てた。
成長した彼はナチスの思想に傾倒し、アドルフ・ヒトラーの『我が闘争』を原文で読みこなし、マルキ・ド・サドの著書も愛読するようになる。
彼は読書家で、特に実録犯罪ものを好み、中でもアメリカの殺人事件「レオポルド&ローブ事件」に強い興味を抱くようになった。
彼は自分を他人よりも優れた特別な人間だと思っていたという。
21歳の時、彼はマンチェスターのゴートンにある化学薬品会社の在庫管理の職に就いた。
マイラ・ヒンドレー
後に「全英最凶の女」と呼ばれるようになるマイラ・ヒンドレーは、1942年7月23日、マンチェスター・クランプソールで生まれゴートンで育った。
しかしマイラの両親は問題を抱えていて、マイラは5歳の時から両親ではなく祖母に育てられた。
少女時代のマイラは、人より少し大きな鼻としゃくれたアゴがコンプレックスの、ごく普通の女の子だった。
だが、元従軍兵のマイラの父親は普通ではなく、アル中で酒に酔ってはマイラと母を殴り、マイラに暴力の威力を教えるような男だった。
マイラは中学を卒業後、電気工学会社の工員として就職し、その後18歳で化学薬品会社のタイピストの職に就き、イアン・ブレイディと出会った。
父親からの暴力で屈折したマイラと、歪んだ思想と嗜好を持ったイアンが出会ってしまったのは、最悪の運命の悪戯だったといえよう。
2人の交際
先に恋心を抱いたのは、マイラの方だった。マイラはイアンを一目見ただけで好きになった。
しかしイアンは最初はマイラに興味がなく、マイラを冷たくあしらった。だがマイラの恋心は冷たくされればされるほど燃え上がった。
ある日、2人が働く会社でクリスマスパーティーが開催された。そのパーティーの帰り道、イアンはマイラを送り、その時に初めてマイラをデートに誘った。
憧れのイアンからの誘いを受けて、マイラの心は踊った。2人のファーストデートは映画観賞だったという。
うぶで学のないマイラは、イアンの好みと歪んだ選民思想に簡単に染まっていった。マイラにとってイアンは知的で博識な自慢の恋人だった。それは恋愛というよりは心酔に近かったようである。
イアンはマイラにドイツ語の知識やドイツワインの味を教え、ナチ思想やマルキ・ド・サド文学の素晴らしさを語った。
イアンに感化されたマイラはアーリア人を気取って髪を染め、ミニスカートやレザーブーツを履いた。イアンはそれを気に入って、マイラのことを「マイラ・ヘス」と呼んだ。イアンはマイラという自分の信奉者が現われたことによって、悪しき願望を増長させていった。
やがて2人はアメリカの誘拐殺人犯「レオポルド&ローブ」のように、「自分たちこそが選ばれし者である」とことを証明するために完全犯罪を企てたのである。
2人の犯行
1963年7月12日、2人にとって初めての犯行が行われた。
1人目の犠牲者は、16歳のポーリン・リードだった。
マイラの妹の友人だった彼女は、ダンスパーティーに向かう途中で2人にさらわれた。ポーリンは暴行を受けた後、喉を切られて埋められた。
2人目の犠牲者は、12歳のジョン・キルブライドだった。1963年11月、彼は市場にいた所をさらわれた。
3人目の犠牲者は、祖母の家に向かう途中だった12歳のキース・ベネットだ。1964年6月、キースはマイラに車に荷物を積み込む手伝いを頼まれ、親切に手伝った結果さらわれた。
4人目の犠牲者は、10歳のレスリー・アン・ダウニーだ。1964年12月、アンコーツの遊園地にいた時にさらわれた。警察がいなくなったレスリーをいくら探しても、見つかることはなかった。
2人の犯行パターンは大体決まっていた。マイラが被害者を油断させて車に誘い込み、イアンと2人で拷問を加えて殺害して、サドルワース・ムーアに埋める。
完全犯罪を企んだ割には随分稚拙な方法だった。
4人目のレズリーに拷問を加える時の様子を、2人は写真や録音テープで記録に残していた。
レスリーの命乞いの声と、イアンとマイラの悦楽の声が録音されたテープは、裁判時に陪審員の前で流されたという。
5人目の犠牲者
5人目の犠牲者は、17歳のエドワード・エヴァンズだった。
5人目の犯行に際して、2人は仲間を増やそうと考えた。マイラの妹の夫デヴィッドは、マイラの妹を暴行して妊娠させた上で結婚したとんでもない男だった。
イアンは5人目の犯行を行う前に、デヴィッドに自分が傾倒している思想や武勇伝について語り、デヴィッドはそんなイアンに憧れた。
1965年10月6日、デヴィッドはマイラに呼び出されて、2人が暮らす家を訪れた。
中からは凄まじい叫び声が聞こえ、何事かとドアを開けたデヴィッドの目には凄惨な光景が飛び込んできた。
デヴィッドがドアを開けたその時、イアンはエドワードの頭に向かって斧を振り下ろしている最中だったのである。あたりは一面血に染まったが、エドワードは絶命しなかった。それからイアンは斧の使用をやめ、電気コードで首を絞めた。
イアンから斧を渡されたデヴィッドは、その瞬間、我に返って震え上がったという。
彼は悪徳に憧れるだけのただのチンピラだったのだ。
デヴィッドは、その場では2人に忠誠を誓ったふりをして、帰宅後に妻に相談し、翌朝になってから警察に通報した。
デヴィッドの通報から数時間後、刑事がパン屋の変装をしてイアンとマイラの家に踏み込み、2階で哀れなエドワードのむごたらしい遺体を発見したのだった。
逮捕後の2人
先に逮捕されたイアンは、デヴィッドにすべての罪をなすりつけようとしたという。
マイラは殺害への関与を否定したが、警察の捜査で誘拐と殺人の証拠が見つかり、間もなく逮捕された。
警察に捕まったイアンとマイラだったが、2人は当初自分たちの罪を認めようとしなかった。
イアンから武勇伝を聞かされていたデヴィッドの証言を元に、警察がサドルワース・ムーアを捜索したところ、レスリーとジョンの遺体が見つかった。
ポーリンの遺体は1985年のイアンの供述を元に、犯行から20年以上たった1987年に発見された。しかしキースの遺体は現在も見つかっていない。
2人が逮捕された当時、イギリスでは既に死刑が停止されていたため、2人は仮釈放なしの終身刑に処されたが、2人の犯行と動機のあまりのおぞましさに、イギリス国民からは死刑再開を望む声が上がった。
釈放を望み続けたマイラは2002年に気管支肺炎で亡くなり、精神を患い釈放を拒否したイアンは2017年5月に慢性閉塞性肺疾患によって死亡した。
ムーアズ殺人事件をモチーフにした作品
イギリス中を震撼させたムーアズ殺人事件は、映画や楽曲、絵本の題材として取り上げられている。
アメリカの絵本作家エドワード・ゴーリーは、イアンとマイラの事件をモチーフにして大人向け絵本『おぞましい二人』を描き上げた。
子供が悲惨な目に合う絵本を多く描いてきたゴーリーは、自身の作品が現実化したようなこの事件を知った時には激しく動揺し、不安になったという。
イギリスのロックバンド、ザ・スミスは、この事件をモチーフに作詞した曲『Suffer Little Children』をファーストアルバムのラストに収録している。
ボーカルのモリッシーは犯行が行われたマンチェスターの出身の1959年生まれで、2人が捕まった時は6歳だった。
出会ってはいけなかった2人
ムーアズ殺人事件は、イアンが元々持っていた異常性に注目が集まり、イアン主体で行われた犯罪だと考えられることが多い。
しかし、実はマイラの方が陰の主導権を握り、犯行に対して積極的だったという。
マイラは、ただイアンに洗脳されていたわけではなかった。サディスト嗜好のイアンと出会ってしまったことで、内に秘めていた狂気が表出してしまったのだ。
マイラは最後まで自身の犯行は「イアンの影響である」と訴え、釈放を望んでいた。
被害者遺族に謝罪はしたものの、本当に反省していたのなら恋人にすべての責任をなすりつけることがあるだろうか。
イアンとマイラの出会いは、燃えるきっかけを待ってくすぶっていた炎にガソリンを注ぎ込むようなものだった。
2人が死んでしまった今となっては、いまだ見つからないキース少年の遺体の発見と、苦しみながら亡くなった子供たちの冥福を祈るばかりだ。
参考文献
エドワード・ゴーリー『おぞましい二人』
コリン・ウィルソン/ ドナルド・シーマン『猟奇連続殺人の系譜』
マーティン・ファイドー『世界犯罪クロニクル』
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