昭和4年(1929)2月23日、当時世間を大いに騒がせた1人の強盗犯が捕まった。
その犯人は「強盗に押し入った家で、住人に防犯の心得を説教する」という独特の特徴があり、そのことから『説教強盗』と呼ばれた。
手口は大胆かつ巧妙で、犯行の度に大きく新聞に掲載された。そんな犯人の正体は妻木松吉(つまき まつきち)という左官をしていた男であった。
ここでは妻木松吉について追求していきたい。
野守の子
妻木松吉(つまき まつきち)は、明治34年(1901)12月13日に山梨県で生まれた。
届出上では西八代郡市川大門町(現・市川三郷町)で生まれたことになっているが、実際の出生場所は甲府監獄であった。
松吉の母・たかは市川大門町の製紙会社で働いていた時、同僚の徳太郎と知り合い同棲するようになった。しかし、たかは妊娠8~9ヶ月の頃に窃盗罪で逮捕され、3ヶ月間甲府監獄に入り、そこで松吉を私生児として出産した。
松吉の父・徳太郎は松吉が生まれた月に肺炎で亡くなったといい、たかは出所後、市川大門町の河川敷にある生家に戻り飴の行商をしながら松吉を育てた。
松吉が5~6歳の頃、たかは三恵村加賀美(現・南アルプス市加賀美)の野守・近藤米造と結婚した。※野守(のもり)とは野原の見張りをする人
米造とたかのあいだには8人の子が生まれ、一家の暮らしは極貧であった。米造の松吉にたいする扱いは酷く、近所の使い走りや薪拾いをさせ、猟に行く時は松吉を猟犬の代わりにして野山を駆け回らせたという。
松吉は小学校在学中から、しばしば他の所に奉公に出され学校は欠席がちであった。
また、父・米造が野守であったことから、松吉は「野守の子」と呼ばれて周りから差別された。(松吉の祖父〔たかの父〕も野守だった)
野守はどこの村でもつま弾きにされがちであった。松吉は周りの子供から野守の子と呼ばれると、その相手に突っかかり謝るまで殴り、たとえそれが上級生でも関係なかったという。
差別された、野守(のもり)とは
野守という語は、万葉集巻第一の額田王の歌の中に登場しており、8世紀頃にはすでにあったとされる。しかし、当時の野守については染料の原料の栽培地などの番人であったこと以外、詳しいことは不明である。
17世紀初頭頃の山梨県で野守は、幕府の直轄領地や米を守るためにおかれていた。また江戸時代頃には野守は「野番」とも呼ばれた。近世の農・山村の野番や山番(山火事を防いだり木材などの盗伐防止をする山の番人)は、幕藩領主の警察機構の最末端に位置づけられた職能で、とくに西日本の方で穢多・非人などの賎民を強制的に野番・山番などにさせる例が多かったという。
彼らは村の負担で養われる一方で村落での取締りを担当するため、百姓達から恐れられ差別される存在になっていった。
彼らが周囲から嫌悪された理由を山梨県の例で見ると、彼らは管轄外の他村まで立入り、捜査だなどといって難くせをつけては村人のバクチなどを摘発した。それを見逃すかわりに村人から金銭を出させるということをしていたという。
山梨県では江戸時代の「非人」という身分呼称が、明治以後、「野守」という職業名で残されることになった。
左官職人
松吉は小学校を卒業すると、県内の農家や工場などに奉公に出された。
住み込みで牛乳店の配達をしていた時、集金をごまかしていたことが主人にばれたうえ、スリの現行犯で逮捕された。
大正9年(1920)6月、松吉は18歳で窃盗と横領の罪で懲役8ヶ月の判決をいい渡され、甲府監獄に服役している。
翌大正10年(1921)2月に出所すると、山梨県を離れて埼玉県深谷の運送店に住み込み、2年半ほど働いた。
その後、東京市小石川区豊川町(現・文京区)の左官・蛭間粂吉宅に見習いとして住み込んだ。
松吉は負けず嫌いの性格もあり、みるみる腕を上げていった。また女性から人気があったという。
ここに1年半ほどいた後、親方のもとを去り左官の雇われ仕事をするようになった。
大正14年(1925)には左官仲間の妹・八重と暮らし始めた。
その後、西巣鴨向原に住むようになったが、この頃関東大震災の復興景気が終わり不景気になった。
八重との間に長女が生まれたが、当時、松吉は肺尖カタルを患っており、ろくに仕事をしていなかった。
松吉たちの生活は、日ごとに苦しくなっていった。
説教強盗
大正15年(1926)夏、松吉は金に困った末、人の家に侵入し盗みをするようになった。
犯行は初めの頃は間隔をあけて行っていたのが、翌昭和2年(1927)春頃から間隔が短くなっていった。
松吉は目をつけた家に侵入し、住人に見つかった際には、
「お騒ぎになるとお互いに損をしますよ、しばらく我慢して下さい」
「犬は防犯に役立つから、飼った方がいい」
「お宅はくつの脱ぎ方が乱雑で、こういう家は戸締まりが悪いことを泥棒に教えているようなものですよ」
などの説教をし、住人に騒がれないようにして、始発電車が走り出す時間まで居座ったという。
松吉は犯行前に万全の準備をし、大胆でありながらも注意深い行動と計画によって警察から逃げ続けた。
また、松吉の身体能力は超人的で、2メートル余の歩幅で移動することができたという。これは少年時代に山で猟犬代わりに扱われていたことで身についた特技であった。
その後、朝日新聞が松吉のことを『説教強盗』と名付けて新聞に載せた。
一説には、それを書いたのは朝日新聞記者・三浦守(のちの作家・三角寛)といわれている。
三角はその頃執拗に事件を追い、取材中にある刑事が「説教強盗は山窩(サンカ)ではないか」と話したのをきっかけに、山窩小説や山窩研究の第一人者になった。
一般的に山窩(サンカ)とは川漁、箕作りなどを業とする放浪民の集団、あるいはそれらの集団と結びつきを持つ人々の総称とされ、警察での山窩とは各地を漂白しながら凶悪犯罪をくり返す、無籍者の集団かそれに近いものを指していた。
昭和2年(1927)10月には、警視庁は松吉の強窃盗を同一人によるものとし、検挙に向けて各警察署が一致協力することを決定した。
翌昭和3年(1928)も松吉は犯行をくり返した。また、松吉の犯行をまねた模倣犯も現れるようになっていた。
逮捕
昭和4年(1929)1月、朝日新聞は『強盗被害者座談会』という記事を掲載した。
出席者は学者、小説家、警察関係者などで、新渡戸稲造博士や小説家・三宅やす子などの著名人も含まれていた。
強盗事件はついに政治問題にまで発展し、2月に入ると帝国議会において『帝都治安維持に関する決議案』が提出された。さらに朝日新聞は説教強盗を捕まえた人に懸賞金1千円(当時の平均的なサラリーマンの約1年分の給料)を支払うことを発表した。
2月6日には模倣犯の説教強盗二世・岡崎秀之助が逮捕された。岡崎は教育家・下田歌子宅や小説家・三宅やす子などの有名人の家を襲って強盗を働いていた。
この頃、指紋鑑定は今のように重視されていなかったが、説教強盗が以前入った米店に指紋が残っており、それを調べるとかつて甲府監獄に服役していた妻木松吉のものであることがわかった。
警察は松吉の住所をつきとめ、ついに2月23日の夕方、西巣鴨向原の自宅にて妻木松吉(27)を逮捕した。
その時、松吉は落ち着いた様子で「逃げも隠れもしません」といったという。
出所とその後
松吉は取り調べで、強盗65件、窃盗29件を自白した。
翌昭和5年(1930)12月には東京地方裁判所で無期懲役をいい渡され、松吉は控訴せず刑に服した。
東京・小菅、仙台、再び小菅、新潟、秋田の各刑務所で服役した後、昭和22年(1947)12月に仮出所を許された。
松吉は出所後、もとの担当弁護士・太田金次郎宅に身を寄せ、それから全国の警察署・宗教団体・社会事業団体などから防犯講演を依頼されるようになり、各地をまわったという。
東京・浅草のストリップ劇場『ロック座』にもゲスト出演している。松吉の傑出した弁舌によって、さながらタレントのような存在になっていった。
しかし、松吉の話には事実からずれていたり、時には作り話もまじっていた。
松吉が強盗に入る家は裕福なところだけで、さらに犯行で得た金を浅草の浮浪者にバラまいたこともあったとされ、『義賊』視されていた部分もあった。
松吉は平成元年(1989)1月、東京都八王子市の病院で87歳で死去した。
「罪を償いたい」という本人の意志で、生涯無期懲役囚として保護観察のままであったという。
参考文献 加太こうじ 「昭和大盗伝実録・説教強盗」 現代史出版会 1975
礫川全次 「サンカと説教強盗」 批評社 1992
筒井功 「新・忘れられた日本人」 河出書房新社 2011
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