はじめに
戦いに明け暮れた戦国武将にとって、「娯楽」でひと息つくことは気分転換を図るうえでも必要不可欠だった。
身分の高い戦国武将たちは自身の学びとして、またコミュニケーションの手段として多くの娯楽に手を広げたという。
今回は、戦国武将たちの娯楽について解説する。
鷹狩りと相撲
アウトドアの娯楽として人気が高かったのが「鷹狩り」である。
鷹を飼育するためにはかなりの経費がかかるため、身分の高い戦国武将にしかできない娯楽だった。
鷹狩りを嗜むのは戦国武将にとっては大きなステイタスだった。
飼い慣らした鷹を放ち、野鳥や野ウサギなどを捕獲し、捕獲した獲物を鷹から取り上げて別の餌を鷹に与えた。
健康志向の徳川家康は、適度な運動になるということで頻繁に鷹狩りをしたという。
織田信長も鷹狩り好きとして有名で、信長と交流を持ちたいと願った戦国大名たちは、こぞって鷹を献上したという。
記録に残っているだけでも上杉謙信・小早川隆景・伊達輝宗・長宗我部元親・北条氏政・柴田勝家といった面々から鷹を贈られている。
信長は、鷹狩りを戦の訓練のためにも活用していたという。
また、鷹が生きた動物を餌にしたせいで、猫が安土城付近にいなくなったという逸話もある。
信長からネコやニワトリを守れ! 戦国時代の無慈悲な出来事とは?
https://kusanomido.com/study/history/japan/azuchi/70458/
「信長が奈良に鷹の餌となる猫狩りに来る」という噂が流れ、奈良に住んでいた猫好きの人たちは、興福寺などの寺院に自分の愛猫を隠したという。
また、信長は大の「相撲」好きだった。
自らも相撲を取って公家たちの前で披露したこともあり、300人規模の相撲取りを集め、相撲大会を何度も開催した。
強かった相撲取りには、賞金を与えると共に自分の家臣とした。
現在の相撲や土俵の原型を考案したのも信長だと言われている。
囲碁・将棋・賭博・双六
「囲碁」の歴史は古く、奈良時代に中国から伝わったという。
室町時代以降に僧侶や公家の間で流行し、真田昌幸は囲碁の愛好家としても知られている。
「将棋」は鎌倉時代に日本に持ち込まれ、当初の将棋は駒の数が130もある大掛かりなものだった。
しかもルールが複雑で、一つの勝負に長い時間がかかったことから、簡略化されて現在のような形に落ち着いた。
越前の朝倉氏の遺跡から、永禄年間に使われたと思われる将棋の駒が発見されている。
「賭博」も、戦国時代には多くの人たちの娯楽になっていた。
賭けの対象になったのは鶏を戦わせる「闘鶏(とうけい)」、平安時代に貴族の遊びとして人気だった「蹴鞠」、サイコロを振って目の数が大きい方が勝ちと言うシンプルなルールで勝ち負けを競う「目増(めまし)」も人気で、負けた方は金品などを提供した。
賭博の一種として遊ばれたのが「双六」で、当時の双六は現在の形式とは異なり、碁盤や将棋盤に似た分厚い木板で作られた盤の上に、各自がそれぞれ白と黒の駒を15ずつ並べて、2個のサイコロを投げ、目の数の合計で駒を進めて早く敵陣に入った方が勝ちというゲームだった。
能・舞・歌舞伎
身分の高い戦国武将たちが、社交の場における嗜みとしたのが「能・舞・歌舞伎」である。
自分が演じるのではなく鑑賞の対象として広まり、戦国武将たちがパトロンになって演者を金銭的に援助したことで発展した。
平安時代に生まれた猿楽をベースに、室町時代に世阿弥・観阿弥らによって確立された「能」は、室町時代には足利将軍家、戦国時代には豊臣秀吉らの庇護を受けた。特に秀吉は演者を援助するだけでなく、自身も天皇の面前で能を披露したほどだった。
伊達政宗も、関山・中尊寺の能楽堂を保護し、自身も幼少期から能を嗜んでいた。
織田信長は「舞」の中でも曲舞(くせまい)の一種である「幸若舞」を愛好したことで知られ「人間五十年、下天のうちを比ぶれば夢幻のごとくなり」という一節から始まる「敦盛」を舞ったという話は有名である。
「歌舞伎」は、能や舞の流れを受けて生まれた比較的新しい芸能で、戦国時代の女性芸能者・出雲阿国(いずものおくに)が創始者だと言われている。
奇抜な格好をする「傾く」という言葉が歌舞伎の語源で、舞踊にセリフを掛け合わせた総合演劇として確立した。
歌舞伎は、江戸時代になってから大衆の娯楽として庶民に定着していった。
茶の湯・和歌・連歌
能・舞・歌舞伎と同じく、お金と地位を必要とする娯楽が、「茶の湯・和歌・連歌」だった。
能・舞・歌舞伎が主に鑑賞の対象であるのに対し、茶の湯・和歌・連歌は自ら習得するもので、それなりの指導を受けるためには一定のお金が必要だった。特に「茶の湯」は道具がとても高価だったため、身分の高い戦国武将にしかできない娯楽だった。
「和歌」については戦国武将の細川藤孝(幽斎)が、当時唯一の「古今和歌集」の秘伝を授けられた存在として知られていた。
本来、古今和歌集の解釈を口伝や書物で弟子に伝える古今伝授は、一子相伝の奥義であった。三条西実枝から息子に伝えられるはずだったが、息子が幼過ぎたために高弟だった細川藤孝に伝授されたのである。
和歌と並んで人気のあった「連歌」は、五・七・五の上の句と、七・七の下の句を別の人が詠むというルールで行われ、百句で完成されるという。
戦国武将たちは家臣や隣国との交流などで一体感を高めることを目的に、連歌会を度々開催していた。
また、戦の出陣にあたり、勝利を祈願して神社に連歌を奉納することもあった。
連歌を愛好した戦国武将として有名なのが真田信繁(幸村)だ。
慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いで西軍について流罪になった信繁は、退屈な日々から連歌に興味を持つようになり、相当な熱の入れようだったという。
おわりに
ひとたび戦になれば、命懸けで戦うことを余儀なくされた戦国時代。
戦国武将たちは常に緊張感と隣り合わせの日々を過ごしていただろう。趣味や娯楽を楽しむ時間は、数少ない心安らぐ時間だったのかもしれない。
この記事へのコメントはありません。