『東京ブギウギ』の大ヒットで「ブギの女王」に君臨した笠置シヅ子は、昭和25年にアメリカ公演を行っています。
当時「アメリカ帰り」の箔がつくことから文化人の間で渡米が流行しており、シヅ子にもチャンスがめぐって来たのです。
しかし、出発前にマネージャーに大金を横領されるなど、さまざまな問題が勃発。特に美空ひばりとのトラブルは、後々まで尾を引くことになります。
今回は、シヅ子の海外デビューの裏で起きていた、美空ひばりとのトラブルについて解説します。
ハワイ、アメリカ本土で4か月の公演
昭和24年10月に女優の田中絹代が「日米親善使節」として渡米してからというもの、日本の芸能人は「アメリカ帰り」の箔をつけるため、こぞってアメリカへ渡りました。
当時はアメリカも日本もブギ全盛の時代。ハワイにある日系二世の興行会社から公演の依頼があり、笠置シヅ子(当時は笠置シズ子)に渡米のチャンスが巡ってきます。
ただし、その頃は海外渡航が厳しく規制されていたため、渡米には「慰問」などの名目が必要でした。そこで「日本人慰問公演」という名目で、アメリカ公演を行うことになったのです。
メンバーはシヅ子と服部良一、女優の宮川玲子、服部の妹で歌手の服部富子の4人。
昭和25年6月16日に羽田を出発し、ハワイ、ロサンゼルス、サンフランシスコ、オークランド、ニューヨークを巡る4ヶ月の旅でした。
美空ひばりに出されたブギ禁止令
笠置シヅ子が渡米する1か月前、当時13歳だった美空ひばりもアメリカ公演を行っています。
シヅ子とひばりの出会いは、昭和23年10月の横浜国際劇場の公演で、当時「ブギの女王」として人気絶頂だったシヅ子の前座を11歳のひばりが務めました。
尊敬していた笠置シヅ子との共演がよほどうれしかったのでしょう。ひばりは満面の笑みを浮かべ、シヅ子と一緒に写真を撮っています。
当時ひばりは持ち歌がなく、大好きなシヅ子のブギの数々をレパートリーにしていました。歌い方から身振り手振りまでシヅ子そっくりのステージを見せるひばりは、「豆ブギ」「小型笠置」「ベビー笠置」と呼ばれ、天才モノマネ歌手として一躍有名になっていました。
そんなひばりが、淡谷のり子の前座で『星の流れに』を歌ったことがあります。
『星の流れに』は「こんな女に誰がした」のフレーズで、生きるために街娼になった女たちのやるせなさや怒りを菊池章子が歌い、戦後一世を風靡した曲です。
「夜の女」を歌う11歳の少女。菊池そっくりに歌ってはいても歌詞の深い意味までは分からなかったのでしょう。
ひばりは母親に「身を占ってってなに?」「あてもない夜って?」としきりに尋ねており、その様子を見ていたのり子は胸が痛んだといいます。
“娘の奈々子とさして年の違わない少女が、こまっしゃくれた様子で大人のものまねをして歌う姿を見ていると、敗戦国日本の貧しさをまざまざとみせつけられているようで、のり子はやり切れなかった。” 『ブルースの女王 淡谷のり子』
その後、ひばりは日劇のレビューや映画に出演し、シヅ子のブギウギを歌う少女として人気を集めます。
『河童ブギウギ』で正式にレコードデビューを果たし、12歳で主演映画『悲しき口笛』の主題歌が、当時の史上最高記録45万枚を売り上げ、一気にスターへと躍り出ました。
昭和25年5月、ひばりは「日系二世部隊の記念塔建設資金募集」の名目で、ハワイやアメリカ本土での公演を予定していました。奇しくもシヅ子たちのアメリカ興行と同時期であり、会場もほぼ同じです。
余談ですが、偶然とは思えないこのバッティングには、シヅ子のマネージャー山内が金欲しさに、旧知の仲だったひばりのマネージャーにシヅ子たちの渡米日程を教えたという噂もあります。
この時、ひばりの持ち歌は『河童ブギウギ』と『悲しき口笛』の2曲しかなく、アメリカでシヅ子のブギウギを歌う予定になっていました。
ひばりが一足先にシズ子のヒット曲を歌って回り、その後で同じ曲目でシヅ子が回るのでは、名曲の数々がひばりのオリジナルと思われてしまいます。後から渡米するシヅ子たちにとっては大変分が悪く、興行価値が低下するのは目に見えていました。
慌てた興行主は日本音楽著作権協会に依頼し、「渡米中、服部良一の全作品を歌っても演奏してもならない」という通知状をひばりサイドに送ることになったのです。
これに対してひばりのマネージャー・福島通人は、「著作権協会を通じて使用料は支払っている。歌うなといわれたからにはもちろん歌わないが、先方から注文された場合、歌わないわけにはいかない」という談話を新聞で発表しています。
大盛況だったシヅ子のアメリカ公演と「オールマン・リバップ」の誕生
結局、シヅ子たちの心配は杞憂に終わりました。
ウェーク島では現地の歌手が「銀座カンカン娘」を歌い、ハワイ本島では「東京ブギウギ」も「買物ブギー」も大流行していました。
※買物ブギーや他の曲については
【ブギウギ】 生涯で17曲のブギをリリースした笠置シヅ子 「流行語になった買物ブギー」
https://kusanomido.com/study/history/japan/shouwa/boogiewoogie/81246/
服部は道行く人に「オッサン、オッサン」と呼びかけられ、シヅ子は「わて、ほんまによういわんわ」と話しかけられたそうです。
ホノルル公演は11日間連続で超満員となり、興行は大成功に終わりました。
その後、一行はアメリカ本土に渡り、ニューヨークではブロードウェイでミュージカルを鑑賞。ナイトクラブでビリー・ホリデイの歌を聴いたシヅ子は、同行していた服部富子に「これを聴いては、もう歌うのがいやになった」と話したそうです。
また、当時ニューヨークではブギウギがさらに進化したビ・バップが流行しており、大きな刺激を受けた服部は、帰国後、傑作の一つといわれる「オールマン・リバップ」を作曲します。
笠置シヅ子の4か月に及ぶアメリカツアーは大成功をおさめ、ブギからビ・バップへと新境地を開拓するきっかけとなったのでした。
美空ひばりとの和解
帰国後、渡航前の騒動が世間を騒がせていることを重く見た福島通人は、服部へ謝罪し、シヅ子とひばりの和解の場が設けられました。
「笠置シヅ子が美空ひばりをいじめていた」という噂もたちましたが、これは、この一連の騒ぎをマスコミが扇動し、関係者の話に尾ひれがついて世間に伝わったのが一因といわれています。
シヅ子は、ひばりについて終生言及しませんでした。シヅ子にしてみれば、騒動は自分のあずかり知らぬところで起きたことで、特に話をする必要もなかったのかもしれません。
一方、芸能界のご意見番・淡谷のり子は美空ひばりに説教をしています。こういう時に説教をできるのが、淡谷のり子の淡谷のり子たる所以です。
芸能界には同じ仕事をしていくもの同士、礼儀があり、歌を横取りして相手に不利益を与えるような仕事の仕方は、たとえ子どもであっても許されることではないと、のり子は考えていました。
「人さまの歌を横どりするのはおよしなさい。歌手として大成したければ、誰かのまねっこではなく、自分の歌を歌いなさい。どんなにうまく歌ってもニセモノはニセモノです」『ブルースの女王 淡谷のり子』
先達の教えどおり、その後ひばりは『東京キッド』『リンゴ追分』『お祭りマンボ』と続けざまにヒットを飛ばし、自身のレパートリーを確立。歌姫の名をほしいままにしていきます。
そのうねりはスターの新旧交代という大きな波となり、シヅ子を飲み込んでいくのでした。
参考文献
砂古口早苗『ブギの女王・笠置シヅ子』.現代書館
吉武輝子『ブルースの女王 淡谷のり子』.文藝春秋
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