平安時代

平安後期に栄華を誇った『奥州藤原氏』は、なぜ滅亡したのか?

源氏と平氏の争いが繰り広げられていた平安時代後期。

現在の東北地方ほぼ全域を、地方政府として自治支配していた一族がいました。

それは藤原四家の一つであり、京の都で摂関政治を行っていた摂関家「藤原北家」の部門における棟梁・藤原秀郷(ふじわら の ひでさと)を祖とした秀郷流の高級貴族・奥州藤原氏です。

今回は、藤原氏の4代に渡るミイラがある中尊寺金色堂と、奥州藤原氏について解説いたします。

奥州藤原氏とは

奥州藤原氏

画像:毛越寺所蔵の三衡画像(江戸時代) public domain

平安時代後期の「前九年の役後三年の役」の合戦が終戦した1087~1189年までのおよそ100年間に、平泉を中心とした東北地方全域を治めていた藤原清衡(きよひら)基衡(もとひら)秀衡(ひでひら)泰衡(やすひら)の4代が、奥州藤原氏と呼ばれています。

彼らは「前九年の役」と、その後の清原氏の内紛である「後三年の役」の後に、出羽国・陸奥国を治めるようになり、清原姓を名乗っていた清衡が、実父である経清の姓・藤原を名乗るようになり、奥州藤原氏が始まりました。

奥州藤原氏と東北地方

奥州藤原氏

画像:奥州藤原氏(黄)の勢力図(1183年 平安時代) wiki c Artanisen

清原氏の所領を継ぐことで、現在の東北地方ほぼ全域を治めることになった奥州藤原氏ですが、初代当主である藤原清衡(ふじわらのきよひら)は、朝廷や藤原摂関家に砂金や馬などの献上品を欠かせませんでした。

これにより朝廷からの信頼を得ていた清衡は、東北地方の自治支配を認められていました。

清衡は、律令制下で朝廷から派遣されてくる国司を拒むことなく受け入れ、地方の第一有力者として協力をする姿勢を崩さなかったため、朝廷内の政争に巻き込まれることなく、独自の文化と政権を確立していったのです。

清衡の子である基衡(もとひら)は、陸奥守として下向してきた従五位上の貴族・藤原基成(もとなり)と親交を結び、基成の娘を次代の当主・秀衡(ひでひら)の嫁として迎え、院への影響力も得ました。
その結果、下向してくる国司は基成の近親者が増え、基成と基衡は院への影響力を強めていきました。

清衡は陸奥押領使(律令制における令外官で軍事的官職)、2代目の基衡は奥六郡押領使・出羽押領使、3代目秀衡は鎮守府将軍(陸奥国におかれた軍政府・鎮守府の長官。部門最高の栄誉職)、4代目の泰衡は出羽及び陸奥国の押領使でした。

世襲することで軍事指揮権を行使することが認められ、摂関家の荘園管理も任されていたことから、奥州藤原氏が自治支配で大きな権力を有していたことがわかります。

世界遺産・平泉と中尊寺金色堂

画像:中尊寺金色堂模型(東京国立博物館) 本人撮影

このように地方で自治支配が行われていた奥州では、独自の文化も花開きました。

奥州には玉山金山や鹿折金山、大谷金山などの金鉱山があり、1124年に清衡によって建立された中尊寺金色堂は、その名の通り屋根や内部の壁、柱にいたるまで全てを金で覆っており、奥州藤原氏の権力と財力の象徴となっています。

また、1117年には2代目当主の基衡が毛越寺(もうつうじ)を再興し、その後も基衡、3代目当主の秀衡が造営を続けました。
毛越寺は壮大な伽藍を持ち、庭園の規模は京都を凌ぐほどの見事なものだったといわれています。

平泉を中心とした奥州は京の都に次ぐ第二の都市でしたが、およそ100年4世代で終わりを迎えることになります。

奥州藤原氏滅亡

画像:歌川芳虎作「奥州高館大合戦」 public domain

源氏と平氏の政争にも巻き込まれることなく栄華を誇った奥州藤原氏ですが、1189年7月から9月に起こった「奥州合戦」によって滅亡してしまいます。

源頼朝の鎌倉政権にとって奥州藤原氏は潜在的な脅威でした。そこで奥州藤原氏が直接京の都へ納めていた献上品を鎌倉経由で行うように要求し、当時の当主だった3代目・秀衡はそれに従いました。

しかし、兄・頼朝から命を狙われていた源義経が平泉に潜伏すると、秀衡は「義経を主君とし、頼朝の攻撃に備えるように」と嫡男の泰衡(やすひら)たちに遺言しました。

一方頼朝は、朝廷に「義経を平泉から追討すべしと、泰衡に宣旨を下すように」と奏上しました。

朝廷は2度に渡り義経追討の命を出しましたが、前年亡くなった秀衡の遺言に従って泰衡はこれを拒否しました。
こうして頼朝は「泰衡追討」を朝廷に奏上し、鎌倉方は奥州征伐を行ったのです。

鎌倉からの圧力に屈した泰衡は、義経を襲撃して自害に追い込みました。

画像 : 都を追われる義経。揚州周延筆 public domain

しかし、頼朝の狙いは奥州藤原氏の殲滅にあったため、義経亡き後も奥州への圧力を強めました。

頼朝は大軍を率いて奥州へ出兵し、阿津賀志山に砦を築くなどして迎撃態勢を整えます。
泰衡は平泉に火をかけて放棄し、頼朝に赦免を求める書状を出しますが、頼朝はこれを無視して進軍を続けました。

その後、逃亡していた泰衡が殺害され首級が届けられると、頼朝は祖先である源頼義が安倍貞任の首をさらした故事に倣って、泰衡の首を晒しました。

こうして奥州藤原氏は滅亡したのです。

終わりに

100年の栄華を誇り、独自の政権と文化を発展させた奥州藤原氏でしたが、最後は平氏との争いを制した源頼朝によって滅亡に追い込まれてしまいました。

現在、奥州平泉の中尊寺金色堂の中には初代当主の藤原清衡・2代目当主の基衡・3代当主の秀衡の遺体とともに、最後の当主・藤原泰衡の首が納められています。

この奥州藤原氏4代にわたる遺体はミイラとなっており公開はされていませんが、以前にこのミイラは研究され、身長や血液型などがわかっています。また、泰衡の首のミイラには晒し首にされた際に打ち込まれた釘の後もあるそうです。

参考 : 奥州藤原氏 平泉の栄華百年

 

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草の実堂編集部

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草の実学習塾、滝田吉一先生の弟子。
編集、校正、ライティングでは古代中国史専門。『史記』『戦国策』『正史三国志』『漢書』『資治通鑑』など古代中国の史料をもとに史実に沿った記事を執筆。

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