古代日本の神と宗教
日本では、古代より多くの神と宗教が信仰されていた。
戦国時代に信仰された宗教は大きく分けて「神道」「仏教」「修験道」「キリスト教」の4つである。
「神道」は日本固有の宗教で、「仏教」は朝鮮経由で中国から伝来し、「修験道」は神道に様々な要素が組み合わされ日本で生まれた。
「キリスト教」はポルトガルから伝来した。
今回は、それぞれの宗教の成り立ちと、戦国武将たちがどのような宗教を信仰し、それをどのように活かしていたのかについて解説する。
神道
3世紀の後半頃に近畿地方に大王(おおきみ)や豪族を中心とする連立政権のヤマト王権が形成され、次第に国家的な組織になった。
そのヤマト王権で信仰されていたのが「神道」である。
神道は、神や霊魂と交流できる巫女・祈祷師を崇める「シャーマニズム」や、すべての有機物・無機物に霊魂が宿っているという考え方の「アミニズム」を起源とした日本固有の宗教だ。
氏族の先祖を神として祀った国祖神(くにそしん)や、地元の神の氏神(うじがみ)が崇拝された。
各地に造営された神社の中でも、その地域で最も格式の高い神社の一宮(いちのみや)や、その地域で信仰される複数の神を祀った神社の総社(そうじゃ)への人々の信仰は厚く、それは戦国武将たちも同じだった。
各地の戦国武将たちは、一宮や総社を新たに造営、修繕して、合戦の際は勝利を祈願するなど、事あるごとに神社を参拝した。
神道を信仰していた戦国武将で有名なのは武田信玄で、諏訪大社に祀られている「諏訪明神」を信仰していた。
信玄は戦時になると「諏訪南宮上下大明神」「南無諏方南宮法上下大明神」「諏方南宮上下大明神」といった軍旗を本陣に立てて、信玄自身が諏訪大社の加護を受けているという印象を敵に与えて、精神的にも圧倒したという。
仏教
「仏教」は、6世紀に朝鮮半島を経由し、中国から伝来した。
奈良時代には国家的な宗教になり、聖武天皇が全国各地に国分寺と国分尼寺の建立を命じた。
当時の仏教は、主に国家鎮護(こっかちんご)という国の災いを鎮めて安泰にすることが目的とされ、「南都六宗」「天台宗」「真言宗」といった宗派が尊重された。
鎌倉時代になると「浄土宗」「浄土真宗」「時宗」「法華宗」「臨済宗」「曹洞宗」などが次々に開宗され、個人の救済を目的として一般の人たちにも浸透していった。
室町時代になると室町幕府が積極的に支援した「禅宗」が武士を中心に信仰されるようになった。
仏教を信仰した戦国武将として良く知られているのが、上杉謙信である。
幼い頃に出家して林泉寺で禅を学んだ謙信は、成人すると軍神として知られる「毘沙門天」を熱心に信仰するようになった。
毘沙門天は「持国天・増長天・広目天」と共に仏教の四天王とされる仏で、その姿の多くは甲冑(鎧兜)を身に付けた武将として描かれている。
謙信は自らを「毘沙門天の生まれ変わり」と信じ、居城・春日山城に毘沙門天を祀る毘沙門堂を設け、「毘」の文字をかたどった兜と軍旗を採用した。
戦場において「鉄砲の弾がまったく命中しなかった」という謙信の逸話も、自身を軍神の化身と信じた信仰心の強さから生まれたのかもしれない。
神仏を信じない無神論者とされた織田信長も、実際には神社や寺院の保護を積極的に行い、政治的な理由からキリスト教も庇護した。
比叡山延暦寺の焼き討ちは、当時、信長と敵対していた浅井・朝倉軍を匿うなど信長に反抗的だった比叡山の僧侶たちを粛清するために行ったものだ。
信長は、仏教そのものを弾圧することが目的ではなかったという。
修験道
「修験道」は、神道や山岳を神々の居場所として崇拝し儀礼を行なう「山岳信仰」、仏教・儒教と共に中国三大宗教とされた「道教」、仏教から発展した流派の「密教」、道教から日本独自に発展した流派の「陰陽道」が組み合わされることで生まれた。
「山伏」と呼ばれる修験者は、山に籠って悟りを得ることを目的に断食・瞑想・経典の唱え・滝の下での祈りなど、禁欲的で厳しい修行を実践した。
室町時代後期から戦国時代にかけて活躍した守護大名・細川政元(ほそかわまさもと)は、修験道に没頭して女性を近づけず、独身を貫いたために実子はいなかった。
山中で空を飛ぶ「天後の術」などを身に付けようとして、とても厳しい修行に励んだという。
キリスト教
天文18年(1549年)イエズス会の宣教師であるフランシスコ・ザビエルが来日して伝導したキリスト教は、最も遅くに日本に広まった宗教である。
ヨーロッパの食品や物品、鉄砲などの軍事品がもたらされた南蛮貿易と強く結び付いていたために、多くの戦国大名たちは政治的・経済的な理由からキリスト教を庇護した。
そして、本気でキリスト教を信仰して洗礼を受けるキリシタン大名も、数多く現れた。
【戦国時代】 キリシタン武将は何人くらい存在したのか? 「驚愕の100人超え」
https://kusanomido.com/study/history/japan/sengoku/77927/
キリスト教は「神は唯1人」とする点が、多神教の神道・仏教・修験道とは異なった。
日本では「八百万神」という言葉に代表されるように、複数の神を信仰する習慣が根付いていたが、キリスト教はそれを許さなかった。
キリシタン大名の中には、この教えを利用して自分を含む領国内すべての人々にキリスト教の唯一神を信仰させることで、支配を円滑に行おうとする者もいた。
しかし、豊臣秀吉がバテレン追放令を発令したことを皮切りに、時代が進むにつれてキリスト教への弾圧は厳しくなっていった。
これには幾つかの理由があった。
その一因として、イエズス会による日本と中国の征服計画が背景にあったともされている。
【イエズス会の野望】 日本と中国の征服を計画していた 「日本人奴隷を輸出し、秀吉が激怒」
https://kusanomido.com/study/history/japan/sengoku/82420/
徳川家康が江戸幕府を開いてからは、更に厳しい取り締まりが行われた。
表面上は仏教徒などを装いながらキリスト教の信仰を続けた「隠れキリシタン」なども登場し、彼らは長く苦難の時代を過ごすことになった。
おわりに
常に死の恐怖と共に生きた戦国武将たちの中には、宗教を心の拠り所にしていた者も少なくなかった。
しかし、宗教が人々に広まっていくにつれ、本来は人を救うために生まれた宗教が争いの火種になるという、皮肉な事態へと発展することもあったようだ。
参考 :
奈良時代創建–聖武天皇の願い | 東大寺
高瀬弘一郎(2015)『キリシタン時代の研究』岩波書店
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