戦国時代はただでさえ戦が多かったうえに、家臣に謀反を起こされる、同盟が覆されるなど、裏切りも日常茶飯事だった。
そのため、「合戦に挑む前にやれることは全部やっておきたい」という気持ちになるのは、ごく自然のことだったであろう。
少しでも縁起を担いでみたり、「凶」とされるものを回避したりと、神頼み的な行動やしきたりも多く存在した。
今回は、合戦前の「吉凶」を判断するしきたりについて触れていきたい。
女性に近づかない
いざ出陣してしまえば、生きて帰れる保証はない。
現代人の感覚ならば「それならば愛しい妻や妾と最後の夜を…」などと連想しがちだが、当時は戦の前に女性に近づくことは「凶」とされていた。
陣触(じんぶれ)という兵の招集命令がかかった後に、武士たちがまず行うのが「身を清めること」であった。
出陣の3日前から、白衣を着て、魚や肉類も食さず、酒も飲まず、水や湯で沐浴を行い、心身共に清めたのである。
さらに、女性に近づくと身が汚れるとして「妻妾との同衾(どうきん・一緒に寝ること)」は禁止されていた。
つまり熱い夜はおろか、添い寝さえも許されなかったのである。
特に妊婦や出産直後33日間の女性との接触は最もタブーで、これは「血を連想させる」ということが理由であった。
女性の着るものにも触れないほどの徹底ぶりだった。
この当時、女性は「不浄」と考えられていたのだ。
しかし戦国時代後期には、豊臣秀吉が側室の淀殿を戦場に呼んだという逸話もある。
とはいえ、これは天下人の秀吉だから出来たことで、古くから伝わるしきたりを破る武将はほとんどいなかったようだ。
そのため、小姓が寵愛の対象となる「男色」が珍しくなかったのも、このような背景が少なからず影響していると考えられる。
三献の儀
身を清めた後は、連歌会で詠んだ連歌を神社に奉納して戦勝祈願を行った。
そして、出陣の儀式である「三献の儀(さんこんのぎ)」となる。
三献の儀とは、大将が床几(しょうぎ)と呼ばれる椅子に座り、目の前に置かれた3種類の肴で酒を飲む一種のセレモニーである。
この3種類の肴は定型化されていて、「打鮑(うちあわび)」「勝栗(かちぐり)」「昆布」であった。
さらに「打鮑」の切り方も決まっていて、斜めに切って細いところと太いところにして、五切れまたは1切れが用意されていた。
三切れだと「身切れ」となるからだという。
盃は大・中・小と三方に3つの盃が用意され、1つの肴を食べるために盃を3回あおり、合計9回酒を飲んで軍神に合戦の勝利を願う。
これを「三々九度」という。
食べる肴の順番も決まっており「打鮑」は「打つ」、「勝栗」は「勝つ」、「昆布」は「よろこぶ」とかけて「打って勝ってよろこぶ」という、まるで正月のおせち料理のように縁起を担いでいたのである。
北はダメ
戦国時代は「北」という方角を、過剰なほど気にしていた。
日本では古くから「北枕」という風習があり、これが影響しているのかと思えばそれだけではなく、「敗北」という漢字から「北」を避けていたという。
ではどうして「敗北」に「北」という漢字が使われているのか?
「北」は人と人が背を向けている様を示し「人に背を向ける」つまり「逃げる」という意味合いを含んでいるのだ。
昔は「北」は「にぐ」「やぶる」と読まれることもあり、現在でも「そむく」「にげる」と訓読みすることができる。
そのため、合戦に着る甲冑は北に向けて置くことをタブーとしていた。
武田軍は、馬から降りる際も「北」の方向に降りることを禁じていたという。
動物による「吉凶」
戦国時代に合戦には欠かさない存在であった「馬」にも「吉凶」があった。
具体的には、人が乗る前に馬が鳴けば「吉」で、人が乗っている時に鳴けば「凶」であった。
もし人が乗っている時に馬が鳴けば、馬の口を押さえるほどだったという。
また、出陣の時に犬が隊列を左から横切れば「吉」で、右から横切れば「凶」。
同じく出陣の時に鳥が自陣から敵陣に飛ぶと「吉」で、敵陣から自陣に飛ぶと「凶」。
さらに大将が乗る船に魚が飛び込めば「吉」とされていた。
旗指物
合戦では様々な種類の「旗指物(はたさしもの)」が使われていた。
武将の位置や働きぶりが把握できる「馬印(うまじるし)」や「旗印(はたじるし)」、兵たちが鎧の背につけた旗「指物(さしもの)」など、相当数の「旗指物」が存在していた。
当然、合戦中にも持ち運んでいるわけだが、旗の竿は竹製なので折れてしまうこともある。
また、経年劣化や強風などで折れる場合もある。
竿自体が折れることに問題はなかったのだが、折れる場所が「吉凶」に影響した。
折れる場所が持ち手の上であれば「吉」で、下であれば「凶」であった。
ちなみに、指物の中でも一番長いとされた「乳付旗(ちちつきはた)」の長さは約3mとされ、持ち手の位置は地面から80~90cm前後と推測される。
当時の平均身長から考えると、ほとんどが持ち手の上で折れただろうから、「吉」の割合が高かったと考えられている。
吉凶を跳ねのけた信玄
今回は5つの「吉凶」を紹介したが、いちいち全てを気にしていれば合戦に集中することは難しかっただろう。
武田信玄は、こうした「吉凶」を跳ねのけたという。
信玄が信濃攻めに取り掛かっていた頃のある日、庭で家臣たちが喜んでいた。
信玄がその理由を聞くと、家臣たちは「庭に1羽の鳩が舞い降りました!これは吉事です!」と嬉しそうに答えたという。
これで戦に勝てると喜んでいた家臣たちを横目に、なんと信玄は吉事の象徴である鳩を銃で撃ち落としてしまったのである。
おどろいた家臣たちに、信玄はこう伝えたという。
「このまま鳩が庭に居づくわけではなく、鳩はいずれ飛び立ってしまう。飛び立てば凶事となって家臣たちの心情に影響を及ぼす。だから凶事となる前にその芽となる鳩を撃った」
信玄は決して「吉凶」のしきたりを否定しているわけではなかったが、時には即時に非情な決断を下すことも必要だとしたのだ。
参考文献:「信長公記」「甲陽軍鑑」「戦国軍師の合戦術」ほか
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