つるりとした白い片乳房を露わにした聖母子像。この絵に描かれた女性こそ、ヨーロッパ宮廷初の公妾(こうしょう)となり、女性として初めてダイヤモンドを身に着けたとされるアニェス・ソレルです。
このアニェスに惚れ込んだのは、フランス国王シャルル7世です。
彼は「狂気王」と称されたシャルル6世を父に、悪名高いイザボー・ド・バヴィエールを母に持ち、父の病と母の奔放な行動により、自身の出自を疑っていました。
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百年戦争のさなか、ジャンヌ・ダルクの活躍によって王位に就くことができたものの、母イザボーからも王位の正当性を否定され続け、一時期は無気力状態に陥ってしまいました。
そんなシャルル7世を励まし、イギリス軍をフランスから追い出すべく軍に招集をかけさせ、自信を回復させた女性がアニェスでした。
公には一夫一妻制しか認められない時代において、これほどまで王に影響力を与えたアニェスとは一体どのような女性だったのでしょうか。
国王、年下美女アニェスに一目惚れ
シャルル7世とアニェスが出会ったのは1443年2月、南フランスのトゥールーズでのことでした。
当時シャルル7世は40歳、アニェスは22歳の侍女で、シャルル7世の義兄弟ルネ・ダンジューの妻に仕えていました。ちなみにシャルル7世は1422年に従姉妹のマリー・ダンジューと結婚しており、二人の間には最終的に12人の子供が生まれました。しかし、伝わるところによると、マリーは美人とは言い難く、シャルル7世は女癖が悪い人物でした。
そんなシャルル7世が若く美しいアニェスに夢中にならないはずがありません。アニェスは青い瞳とプラチナブロンドの髪を持ち、類まれな美貌に恵まれていました。
彼女の美しさに見惚れたのはシャルル7世だけではなく、15世紀の宮廷詩人オリヴィエ・ド・ラ・マルシュも「私が見てきた美人の中でも、最高に美しい一人である」と書き残しています。
二人の仲は王妃の知るところに
出会って間もない二人はまたたく間に深い仲になっていきました。並外れた美貌と知性を兼ね備えていたアニェスに、王は夢中になったのです。
このことは宮廷中の噂となり、王を心から愛していた王妃マリーの知るところになるのも時間の問題でした。
宮廷お抱えの愛人制度
こうしてアニェスは近世のヨーロッパ諸国の宮廷において初めて「公妾」という地位を手に入れます。
日本語ではあまり聞きなれない地位ですが、フランス語および英語ではもっと直接的な表現で「王の愛人」(Maîtresse royale、Royal mistress)とも呼ばれます。しかし、なぜこのような地位が誕生したのでしょうか?
キリスト教カトリックにおいて婚姻は「一組の男女」が生涯の愛と忠実を約束するものであり、それは教会によって執り行われる神聖な秘跡の一つです。従って基本的には離婚も、いわゆる側室制度も認められていません。しかし、シャルル7世は「公妾」という制度を作り上げ、個人的な愛人を宮廷費で養い、廷臣のように公人として存在させることでこの制約を巧妙に回避したのです。
このように公私が混同されたような制度は、後に公妾が政治的な影響力を強め、主宰する豪奢なサロンや文化的洗練を通じて国外に対する示威的な役割も担うようになります。そしてこの公妾制度は、王に仕える公式な職務として、フランス革命によって絶対王政が崩壊するまで続くことになるのです。
王の寵愛のもと栄華を極める
シャルル7世に溺愛されたアニェスは王妃同然に振る舞い、贅を尽くした生活を送りました。彼女は王との間に三人の子供をもうけ、「美のご婦人(ダーム・ド・ボーテ)」と呼ばれる美しい城も与えられました。
王からの数多い贈り物の中にはもちろん宝飾品も含まれており、その中でも特に注目されたのがダイヤモンドです。
それまでダイヤモンドは男性のための宝石とされていたうえに、当時はまだ研磨の技術も低く、宝石としてはルビーやエメラルドの方が高価でしたが、アニェスは「初めてダイヤモンドを身に着けた女性」として、その名を装飾史に残すことになりました。
また、自身のプロポーションの良さを自覚していたアニェスはボディラインを強調したドレスだけでは満足せず、片方の乳房さえ露わにしていました。
贅沢な生活と挑発的な出で立ちで、アニェスは従来であれば王妃に向けられていた宮廷人や民衆からの嫉妬や憎悪の対象となり、またそれも伝統的に公妾の役割の一つとなっていくのです。
哀しき結末。美人薄命、王は餓死?
王の寵愛により栄華を手にしたアニェスですが、その終わりははかないものでした。
1450年2月、ノルマンディーに遠征中であったシャルル7世の元に第4子を身ごもった身体で向かった彼女は、道中7か月の子を出産後に急病に倒れます。
宮廷の記録官であったジャン・シャルティエによると、アニェスは腹部の不調に急激に苦しんだ後、数時間で亡くなったと言います。(享年28)
そのあまりの急逝ぶりから「アニェスは暗殺されたのではないか?」という説も囁かれました。
一説によれば、シャルル7世の嫡子である王太子ルイ(後のフランス王ルイ11世)がアニェスの影響力を疎んじ、さらに母マリー・ダンジューを悲しませたことを怨んで毒殺したのではとも推測されました。しかし、真相は不明のままです。
アニェスの死後、シャルル7世は彼女を高位の貴族として弔いました。そしてシャルル7世自身もまた王太子ルイによる毒殺を恐れて食事を拒み、伝わるところによれば餓死によって1461年に帰らぬ人となったのです。
参考文献 :
本当にこわい宮廷の物語 西洋の「大奥」桐生 操
美女たちの西洋美術史~肖像画は語る~ (光文社新書) 木村泰司
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