江戸時代

伊達政宗と直江兼続は仲が悪かった? 「犬猿の仲だった説」

伊達政宗と直江兼続は仲が悪かった?

画像 : 伊達政宗と直江兼続 public domain

戦国時代の奥州の覇者・伊達政宗と、上杉家の優秀なNo.2だった直江兼続。

この二人は、後世に「犬猿の仲」だったとして伝えられている。

しかし、本当にこの二人は仲が悪かったのだろうか?残された逸話を紐解きながら、二人の知られざる実情について掘り下げていきたい。

伊達政宗

画像.伊達政宗 ※筆者撮影

伊達政宗は、永禄10年8月3日(1567年9月5日)、出羽国米沢城主・伊達輝宗の嫡男として生まれた。

父から家督を継いだ後、奥州での勢力拡大を図り、天下統一に迫っていた豊臣秀吉の惣無事令を無視して会津の蘆名氏を滅ぼし、112万石を領有した。

しかし、秀吉の小田原征伐が始まると、政宗は北条家との長年の同盟関係から参陣をためらったものの、家中の反対を押し切って伊達家の存続を図るために参陣した。北条氏が秀吉に降伏した後、奥州仕置により政宗は会津領などを失い、領地は72万石に減封された。

その翌年、政宗は蒲生氏郷と共に葛西大崎一揆を平定したが、自身がこの一揆を煽動していたことが発覚し、秀吉に許されたものの、さらに領地を削減され58万石となった。

政宗は密かに天下を狙っていたが、秀吉や徳川家康よりも遅れて生まれたことに対する焦りを感じていた。秀吉の死後、政宗は家康から上杉の抑えとして戦えば100万石を約束されたが、再び岩崎一揆を煽動したことが家康にばれ、100万石ではなく仙台藩62万石に留まった。

しかし、政宗は領内で新田開発に力を注ぎ、仙台藩の実質的な禄高は100万石を有していたという。

直江兼続

画像 : 米沢 上杉景勝公・直江兼続公 主従像 photoAC

直江兼続は、永禄3年(1560年)に樋口兼豊の長男として生まれた。
彼の家系は木曾義仲の重臣・今井兼平の兄弟である樋口兼光の子孫と伝えられている。

兼続は、上杉謙信の養子である上杉景勝の小姓・近臣として仕え、後に直江家の養子となり、景勝の家老兼軍師として活躍した。上杉家兄弟間の争いである「御館の乱」において、景勝の右腕として、上杉家の内政・外交を支える筆頭家老としての役割を果たした。

「御館の乱」の影響で疲弊した上杉家の再建を図るため、景勝と共に上洛した兼続は、当時権勢を誇っていた豊臣秀吉にいち早く臣従した。

その才能を見抜いた秀吉は、兼続を直臣として迎え入れようとしたが、兼続はその誘いを固辞しながらも豊臣政権下で重要な役割を果たし、最終的には秀吉から豊臣姓を賜るまでになった。

慶長3年(1598年)、秀吉の命令で上杉家が越後から会津120万石に転封された際、兼続には元々伊達家の所領であった出羽米沢30万石が与えられた。

政宗からすれば、大名の家臣でしかない兼続に伊達家伝来の所領を奪われたことは気に入らなかったであろう。

このようにして、伊達政宗と直江兼続には深い因縁が生まれたとされている。

天正大判事件

『名将言行録』には、伊達政宗と直江兼続が不仲になった逸話が記されている。
ただし、『名将言行録』は幕末に編纂されたもので、多くの人物の逸話を様々な文献から集めたものではあるが、史料としての信頼性は低いとされる。ここではあくまで「逸話の一つ」として紹介する。

天正16年(1588年)頃、豊臣秀吉が造った聚楽第での出来事である。

諸大名が聚楽第に集まった際、直江兼続は主君の上杉景勝の代理として出席していた。当時、秀吉が新たに鋳造した「天正大判」という貨幣が登場したばかりで、まだほとんど流通していなかった。

画像 : 天正菱大判 造幣博物館蔵 wiki cc As6673

この大判は金の含有量が約74%で、サイズは縦約15cm、重さは約165gもあり、非常に豪華なものであった。

伊達政宗はこの天正大判を手にし、諸大名に見せびらかしていた。諸大名は珍しい大判に興味津々であったが、兼続だけはその輪に加わらなかった。これを見た政宗は、兼続に声をかけて「これを見られよ」と天正大判を触るように勧めた。

しかし、兼続はその大判を扇子の上に置き、素手で触ろうとはしなかったのである。

政宗は初め、兼続が遠慮して素手で触らなかったのだと思っていたが、実はそうではなかった。

政宗が「気にせず手に取って見られるがよい」と言い終わる前に、兼続は「わが主謙信の時から先陣を受け賜り、麾を揮ったこの手に賤しいものを直接触れては汚れますゆえ、扇に乗せたのです」と返答し、その大判を政宗に投げ戻した。政宗はこれに激怒した。

まず、政宗が言い終わる前に兼続が言葉を重ねたこと。次に「賤しいもの」と表現したこと。そして最後に大判を投げ返したこと。

特に「賤しい」には二つの意味が含まれていた。この天正大判自体が賤しいという意味と、政宗が触ったから賤しいという意味である。さらに、この大判に使われている金は元々上杉の佐渡金山からのものであり、それを贅沢な大判にするのは賤しいという含みもあった。

この言動が本当であれば兼続が大人気なかったと言わざるを得ないが、兼続がそれほどの実力者になっていたことを示す逸話でもある。

秀吉の死後

画像 : 上杉景勝像(米沢市上杉博物館) public domain

秀吉の死後、家康は有力大名たちと縁戚関係を結び、天下取りの土台を固めた後、五大老の一人である上杉景勝に上洛を再三要求した。

その返答として、兼続がしたためた書状が有名な「直江状」であり、これが上杉征伐の大義名分となり、関ヶ原の戦いのきっかけとなった。(※直江状は後世に改竄されたとする説もある)

政宗は、上杉の抑えとして最上氏と共に「慶長出羽合戦」を行なったが、岩崎一揆を煽動していたことがばれて62万石に留まった。

その後、上杉家は会津120万石から米沢30万石に大減転封され、家臣思いな兼続は自分の所領を家臣たちに渡し、質素な暮らしを余儀なくされた。

最後に

伊達政宗と直江兼続の関係についてここまで紹介したが、前述したようにこれはあくまでも「逸話の一つ」である。

また、兼続の3人の子は早世しており直江家はすぐに断絶したため、彼に関する逸話は膨らませやすく創作も多い。
「慶長出羽合戦」において兼続率いる上杉軍が、伊達軍と戦ったこともその一因であろう。

彼らの関係は実際には個人的関係はなく、単に政治的な駆け引きに基づいた関係だったといえそうだ。

参考文献:『名将言行録』『戦国武将 逸話の謎と真相』他

 

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