国民的アニメ『サザエさん』は、もともと4コマ漫画として始まった。
その作者こそ、15歳で漫画家デビューを果たした天才少女、長谷川町子氏である。
彼女がどのようにして日本の漫画界に大きな影響を与えたのか、幼少期から晩年に至るまでの活動と功績を詳しく紹介したい。
幼少期
長谷川町子は、1920年(大正9年)1月30日に佐賀県小城郡東多久村(現在の多久市)で生まれた。
小学生時代から活発で好奇心旺盛な彼女は、負けん気が強く、友達思いの少女だったという。成績が良くリーダーシップもあったため、学級長を務めることもあったが、大人しい優等生とは程遠い性格だった。
男子が女子を泣かせた時には仕返しをするなど、友達思いで、負けん気の強さも持ち合わせていた。
14歳の時、町子は一家と共に東京へ上京した。これは、母が町子を含む3人の娘たちに「東京で高い教育を受けさせたい」と願ったからである。
上京後、町子は港区にある私立山脇高等女学校に編入した。ここはお嬢様学校で、田舎育ちの町子にとって全てが新鮮な環境だった。
しかし、方言や礼儀の違いに戸惑い、彼女は周囲から浮いてしまう。
この環境の変化によって、もともと腕白だった性格は内向的で内気になってしまったという。
漫画家デビューと第二次世界大戦
その後、町子は『のらくろ』を描いた田河水泡に弟子入りする。
田河水泡は手塚治虫にも影響を与えた人物として知られている。
『のらくろ』は日本漫画初期の作品として大きな人気を博し、町子もこの作品を非常に気に入っていた。
水泡に才能を認められた町子は、当時の大日本雄辨會講談社(現在の講談社)が発行していた「少女クラブ」で、見開き2ページの『狸の面』を掲載し、漫画家としてデビューした。
同時に彼女のグラビアも掲載され、そこで「天才少女」と紹介された。
雑誌では
長谷川町子さんといって女学校四年生ですが、小さい時から絵が上手で、田河水泡先生のお弟子になってからメキメキと漫画が上達して、「とても僕なんか、かなわないよ」と先生も冗談を仰るほどの腕前です。 『少女倶楽部』1935年10月号
と紹介されている。
1944年、第二次世界大戦の空襲を避けるため、町子は福岡市百道に疎開した。そこで西日本新聞社の絵画部の校閲係として働いた。
終戦直後の1945年9月には、西日本新聞社発行の雑誌に6コマ漫画『さあ!がんばらう』を掲載し、これが彼女の終戦後初の漫画作品となった。
ちなみに、町子は本来、長野県佐久郡に疎開し、子供たちに絵を教える予定だった。しかし、知人の勧めで疎開先を福岡市百道に変更した。
この知人の助言がなければ、『サザエさん』は世に出なかったかもしれない。
『サザエさん』の創作
1946年4月22日、町子は西日本新聞の関連紙「フクニチ新聞社」から連載漫画の依頼を受け、「夕刊フクニチ」で『サザエさん』を連載開始した。
登場人物の名前や家族構成は、近所の百道海岸を散歩中に思いついたという。
「当初はアルバイト感覚で引き受けた」と彼女自身は語っている。
その後、有名出版社から仕事のオファーがあり、8月22日に『サザエさん』は一旦打ち切りとなった。この時の最終話は、サザエがマスオと結婚するという内容で終了している。
上京前、町子の母親が家を売った資金で「サザエさんを出版しなさい」と命じた。これによって1946年12月には家族で出版社である「姉妹社」を設立。
翌年に『サザエさん』を出版した。
1947年には「夕刊フクニチ」にて連載を再開。この時、町子はマスオの顔を忘れてしまったため、西日本新聞社まで出向いて確認したというエピソードがある。
『サザエさん』が人気になるまで
『サザエさん』の第1巻は初版2万部を刷ったが、「B5サイズの横とじが書店で陳列しにくい」との理由で、返品が相次いだ。
町子の母は「次はB6サイズで出せば良い」と励まし、第2巻を出版。これが大ヒットとなり、月に17万部を売り上げる。
その後、第1巻もB6サイズに改訂されて再出版され、全68巻が姉妹社から刊行された。
1948年11月、当初は博多を舞台としていたが、波平の転勤に伴って東京に引っ越すという設定が追加され、これ以降の作品は東京を舞台に描かれるようになった。
1951年からは朝日新聞の朝刊に移り、新聞4コマ漫画の第一人者としての地位を確立し、1969年10月5日からはフジテレビ系列でアニメがスタートしている。
当初はギャグアニメとして制作されたが、原作と異なる内容だったことでファンからの苦情が殺到したという。
1975年からは現在のホームドラマ路線へと変更され、国民的アニメとしての地位を確立した。
その後の人生
1966年、町子はブラックジョーク(ネガティブな内容を含んだジョークなど)を題材とした『いじわるばあさん』の連載を開始した。
『サザエさん』と違い、登場人物が年を取っていく点や、老人介護の難しさなどをテーマにした話もあり、作風が変わったことで、多くの人を驚かせた。
1982年には芸術分野における優れた業績をもつ人物に贈られる「紫綬褒章」を受章。その際のインタビューで「もう漫画は描かない」と答えている。
しかし、時にはエッセイ漫画を発表することもあった。
1987年には、彼女が国内・海外旅行した際のエッセイ漫画『サザエさん旅あるき』を発表。これが町子の最後の作品となった。
1985年には世田谷区に「長谷川町子美術館」を建設。1990年に勲四等宝冠章を受章し、1991年には日本漫画家協会賞文部大臣賞を受賞した。
1992年5月27日、町子は冠動脈硬化症による心不全で亡くなった。(72歳没)
死の一週間前に脳血腫の診断を受けていたが、治療を拒否したという。
葬儀は密葬で行われ、訃報は1ヵ月後に公表された。同年7月28日には国民栄誉賞が授与された。
町子は生涯独身を貫いた。妹の洋子が2008年に出版した回想録『サザエさんの東京物語』によると、町子は何度かお見合いをし、一度は婚約にまで至ったが、後にこれを破棄したという。その理由について、彼女は「夫や子供の世話で一生を送るなんて我慢できない」と語っている。一時期は子供が欲しいと思っていたが、姪ができたことで母性本能が満たされたという。
長谷川町子は、その生涯を通じて日本の漫画界に多大な影響を与え、『サザエさん』という国民的作品を生み出した。彼女の遺した作品と功績は、今なお多くの人々に愛され続けている。
参考 : 『長谷川町子美術館』『サザエさんの東京物語』他
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