明治の終わり、お嬢様女優として世間で話題となった女性がいた。
その女優の名は、森律子(もり りつこ)。
律子は、弁護士で代議士の父を持つ令嬢であった。
彼女は「自分をいかす仕事がしたい」と両親を説得し、女優の道へ進んだ。しかし、当時の日本では「女優は下等な存在」とみなされていたため、周囲の目は冷たかった。
その結果、律子の弟は、姉への非難に耐えきれず、自ら命を絶ってしまった。
それでも律子は諦めず、トップスターとして舞台に立ち続けた。
ここでは、そんな彼女の歩みを詳しく見ていきたい。
平凡な結婚ではなく、女優になりたい令嬢
明治23年(1890年)10月、森律子は弁護士で代議士の父、森肇(もり はじめ)の次女として東京の京橋に生まれた。
律子は何不自由なく育ち、良家の令嬢が多く在籍する跡見女学校を卒業した。
彼女が19歳の時、日本初の女優である川上貞奴(かわかみ さだやっこ)が、帝国劇場株式会社の援助を受けて、夫の音二郎と共に女優養成所を設立し、第1期生の募集を開始した。
その新聞広告を見た律子は、雷に打たれたような衝撃を受けたという。
演劇が好きな律子は「平凡な結婚はしたくないし、自分をいかす仕事がしたい。それには女優がぴったりだ」と考え、両親にその意志を伝えたが、大反対された。
それでも律子は諦めず、両親を説得し、なんとか応募の許可を得たのだった。
江戸時代の身分制度のなごりを残していた当時の日本において、役者や芸人は「河原乞食」と蔑まれ、下等な存在とみなされていた。特に歌舞伎の世界では女役者が排除されていたため、女優や女芸人に対する蔑視が強かったのだ。
それにもかかわらず、女優養成所には100人以上の応募があり、その中から律子を含む15人が合格した。
明治41年(1908年)、養成所の開業式が行われ、帝国劇場創立発起人のひとりである渋沢栄一は、以下のような励ましの言葉を送っている。
「日本で300年来、いやしまれていたものが3つある。商人と婦人と俳優である。
そのいやしまれる婦人が俳優になろうとしていることは、我々実業家も昔は、いやしまれた同士であるだけに他人ごととは思えない。これからは、婦人も芸術なり多方面なりに大いに進んでいかなければならない」
「表へ出ないで家内に引っ込んでいて転ばないのは当然で、足駄を履いて表へ出ても、なお躓かないのが、真に転ばない人である」
お嬢様女優
養成所に通い始めた律子は、毎日厳しい稽古に励んだ。その後、女優養成所は帝劇が経営を引き継ぎ、帝劇付属技芸学校となった。
そして明治44年(1911年)、日本初の本格的な洋式劇場として帝国劇場が開場すると、律子は『頼朝』の浦代姫役で初舞台に立つことになった。
律子の父、肇は当初、娘が女優になることに反対していたが、律子が初舞台に立つことを知ると大変喜んだ。
当時の肇は、長髪が特徴の気性が激しい弁護士として有名であった。
しかし、娘の門出に備えて断髪式を行うことを決め、築地の精養軒に有名人を500人以上招いた。
そして親友に髪を切ってもらい、娘の成功を祈ったという。
結果的に、律子の初舞台は大入り続きで大成功をおさめた。律子は「美貌のお嬢様女優」として評判になり、彼女の名は瞬く間に広がることとなる。
その後、大正2年(1913年)には、欧州を訪問し、約4ヶ月間にわたり俳優養成所の参観や芝居見物などを行い、さらなる経験と知識を積んだ。
社会的侮辱と弟の死
こうして女優となった律子だが、今では考えられないような苦労の連続であった。
親しかった友人から冷たくされたり、親類から絶交されたりしたという。
最も悲惨であった出来事は、大正5年(1916年)の春に起きた。
律子の弟、房吉が律子への非難を苦に、自ら命を絶ってしまったのである。
当時、房吉は第一高等学校の学生であり、律子が彼の運動会を見に行った際、学生たちから「女優ごとき下賤な者を校内に入れては、学校の名誉が傷つく」と退席を求められたのだ。
房吉が自ら命を絶ったのは、その翌日であった。この出来事は、律子の心に深い傷を残した。
それでも律子は、「女性の社会的地位の向上と、世の人々の理解を得ることに努めなければならない」と自らを奮い立たせ、前進を続けた。
女優としての苦労と努力、そしてその先の喜び
律子は帝劇専属の尾上梅幸、松本幸四郎らの指導を受け、古典歌舞伎の演技にも挑戦し、芸域を広げていった。
さらに、劇作家・益田太郎冠者(ますだ たろうかじゃ)の喜劇『ドッチャダンネ』では、主役の大阪芸者を演じた。
律子は、この人気喜劇で大阪芸者を演じるため、大阪弁と山村流の舞の習得に大変苦労したようだ。
彼女の台本には、赤青鉛筆で沢山の注意書きが加えられていたという。
そのような努力の甲斐あって、律子は見事に主役を務めあげ、長年にわたり帝劇のトップスターとして舞台に立ち続けた。
そんなある日、劇を観たという女性とその息子が律子を訪ねてきた。
その女性は
「息子が高等学校の入学試験に合格できず、非常に落ち込んでいました。私はそんな息子を慰めようと帝劇へ連れて行きましたところ、たまたま貴女のお芝居を拝見したのです。
劇が終わった後、息子は『これからはどんな困難にも打ち勝ってみせる』と、すっかり前向きになることができました」
と話し、お礼を述べたという。
律子は演劇が人の心を動かす力を持つことを改めて実感し、自分が女優であることを心から喜んだ。
時とともに女優に対する世間の見方も変わっていった。女優も少しずつ社会に認められるようになり、律子もその一端を担ったのである。
その後
昭和4年(1929年)、世界恐慌の影響で日本も未曾有の不況に巻き込まれた。
この影響を受け、帝劇の経営は松竹に移り、律子も松竹へ移籍した。この頃から、律子は主役の座を後輩に譲り、もっぱら脇役として舞台に立つようになった。
昭和19年(1944年)、太平洋戦争が激化し、世の中は演劇どころではなくなってしまった。その後、律子は新派に移り、再び舞台に立つ。
昭和31年(1956年)には、女舞『桐座』の名跡・4代目桐大内蔵を継承した。しかし、それから5年後の昭和36年(1961年)7月、律子は病のため70歳でこの世を去った。
律子は女優として多くの苦労を味わったが、それらを乗り越えてスター女優となり、長きにわたり活躍した。
彼女は近代演劇界に大きな歴史を刻んだ女優であり、その功績は今なお語り継がれている。
参考文献 :
中江克己「明治・大正を生きた女性逸話事典」第三文明社 2015
森律子「女優生活廿年」大空社 1990
吉武輝子「舞踏に死す」文藝春秋 1985
文 / 草の実堂編集部
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