戦国時代

【大河ドラマを楽しむための武家用語解説】 外様、譜代、一門、家老、奉行、代官~

大河ドラマや時代劇でしばしば耳にする「一門」「譜代」「外様」、または「家老」「奉行」「代官」などといった言葉の正確な意味をご存知だろうか。

これらは、武家社会における組織や役職を示すものであり、彼らは戦時には軍隊として活動する一方、平時には政治家として領地を治める役割があった。

さらに、当時は「血筋」が重んじられていたため、大名の親族も家臣として組織に組み込まれていた。

今回は、武家社会における組織や役職について、わかりやすく解説する。

大名のほとんどが採用していた「寄親・寄子」制度

画像:寄親寄子制度 ※筆者作成

戦国大名が一人で全ての家臣を管理することは不可能であった。

そのために導入されたのが、寄親(よりおや)寄子(よりこ)制度である。

寄親とは、数千石以上の領地を持つ上級家臣であり幹部に相当する。彼らは「一門、譜代、外様」から成り、大名から知行を受ける代わりに軍役を果たしていた。また、寄親は中級以下の家臣である寄子の面倒を見ていた。

寄子は数十石から数百石の領地を有する武将であり、軍役衆、中間(ちゅうげん)、小者(こもの)に分類される。

戦時には、寄子は寄親の組織に組み込まれ、寄親の指示に従って行動した。

この制度により、大名は効果的に家臣団を管理し、戦力を維持することができたのである。

大名の親戚筋からなる「一門」

画像:信玄の弟で一門筆頭だった武田信繁 public domain

一門とは、大名と血縁や姻戚関係にある親族を指す言葉である。これは大名の子や叔父、甥、さらには妻の親族にまで広がる。

多くの場合、一門は本家と分家に分かれ、分家は本家の支配下に置かれることが一般的である。
このような親族関係は「一族」「一宗」「一流」「家門」とも呼ばれる。

血筋が重視される時代であったため、一門の中に必ずしも優秀な人物がいるとは限らなかった。

通常、跡取りは一門から選ばれるが、この過程で「我こそがこの家の主人である」と主張して、お家騒動を引き起こす者が現れることもあった。そのため、大名にとって一門は時に厄介な存在でもあった。

最も信頼できる家臣「譜代」

画像:代々家康を守った本多忠勝 public domain

譜代とは、数代にわたって主君の家に仕え続けてきた、古くからの家臣を指す言葉である。

重臣の多くは、この譜代から選ばれることが一般的であった。

彼らは世襲的に主家に仕え、そのため幼少期から「我が主君はこの方である」との意識が深く刷り込まれて育つことが多い。
このような背景から、譜代の家臣は主君に対して絶対的な忠誠心を持つことが多く、主君も彼らを信頼し、重要拠点の防御や敗戦時の殿(しんがり)などを任せた。

徳川家康は、三河出身の譜代の家臣たちの活躍によって、天下を取ったと言っても過言ではない。

本多忠勝酒井忠次榊原康政などがその代表であり、彼らを中心に家臣団をまとめ上げた。

一方、豊臣秀吉には譜代の家臣が存在せず、その代わりに石田三成加藤清正福島正則などの「子飼い」の家臣を一代で育て上げ、彼らを活用して政権を支えた。

一番気を使う家臣「外様」

画像:徳川家の外様筆頭だった藤堂高虎 public domain

外様とは、主従関係を結んでから日が浅く、譜代と比較して疎遠にある家臣を指す言葉である。

主には他の領地を取り込んだ際に味方となり、家臣団に編入された者たちである。そのため、外様の家臣は主君からの信頼度が低く、戦場では最前線での活躍が求められることが多かった。

徳川家の例を挙げると、関ヶ原の戦い前後に臣従した家々は外様と呼ばれた。

徳川家では譜代と外様が明確に区別されており、家康は「戦時には、譜代は井伊、外様は藤堂を一番手とするように」との言葉を残している。

家臣たちの主な「役職」とは

画像:軍議の様子(小倉城) ※筆者撮影

上記の言葉以外にも、「家老」や「小姓」などの言葉がある。これは武家における家臣たちの役職を意味する。

家臣たちの出自は様々だが、それぞれ重要な役職を与えられていた。

どんな役職があったのか、平時の役職を紹介する。

トップクラスの「家老」

画像:代々家康の家老を務めた酒井忠次 public domain

家老とは、トップクラスの重臣である。

家老は「大人(おとな)」「宿老」「老中」とも称され、大名に直接意見できる立場である。通常、複数人で構成されており、主に譜代の家臣がこの重要な役割を担っていた。一門から家老が出ることは基本的には稀であった。

徳川家の例では、酒井忠次石川数正が家老を務め、特に酒井家は代々家老の家柄として知られていた。

上杉家においては直江兼続が家老として名を馳せている。

彼らは大名の信頼を得て重要な役割を果たし、家の繁栄に貢献したのである。

出世すれば大名も夢ではない「側近」

画像:秀吉の右筆や取次を務めた石田三成 public domain

・小姓(こしょう)

小姓とは、主君の日常生活において雑用をこなす役割を担う者である。彼らは戦時には主君の護衛としても機能し、主に若年者がその役に就くことが多かった。

小姓は成長するにつれて主君の側近として重用されることが多く、特に有能な者は後に重要な役職に就くこともあった。

豊臣家や徳川家は、大名の若年の子や弟を、小姓として人質にとっていた。

織田信長の小姓であった森蘭丸は、特に有名である。

・近習(きんじゅう)

近習とは、主君の側近くで仕える家臣のこと。

鎌倉時代に制度化され、室町幕府でも将軍の側近くに仕える家臣として存続していた。

近侍・近臣・近習衆・近習番などともいう。

・取次(とりつぎ)

取次とは、家臣からの上申を主君に取り次ぐ役割を担う者を指す。また、主君の意思決定を家臣に伝える役目も果たしており、重要な役割であった。

豊臣政権では、石田三成らが「取次」を行っている。

・茶坊主(ちゃぼうず)

茶坊主とは、主君の側近くで日常的な雑務に当たった僧の格好をした家臣である。

剃髪して刀を帯びることはなかったが、実際には僧侶ではなかった。
茶坊主は城のあらゆる場所に出入りしており、情報に通じていため、言動一つで人事はもとより、政治体制にすら影響を及ぼすこともあった。

利発な少年などが行い、衆道の対象になることもった。

・右筆(ゆうひつ)

右筆とは、忙しい主人の代わりに文書を代筆する者である。

書状や公文書を発行するため、政務に深く関与する者が多かった。

石田三成は、秀吉の右筆から出世した。

各プロジェクトや領地を管理する「役方」

画像:築城も奉行の仕事だった(熊本城) ※筆者撮影

・奉行(ぶぎょう)

奉行とは、主君の命令を受けて権限を代行する者である。

城造りのリーダーである普請奉行のほか、作事奉行・町奉行などがいた。

藤堂高虎は、普請奉行として各地で城を建設した。

・目付(めつけ)

目付とは、合戦において将兵が命令違反しないか監視する役目を持ち、平時でも家臣たちの行動を監視していた者を指す。

「横目」ともいう。

慶長の役では目付の報告が元で、豊臣政権の内部分裂が加速した。

・郡代(ぐんだい)

郡代とは、一国のうち一郡、または数郡の支配を任されていた家臣のことである。

合戦時には寄親として寄子を従える。

江戸時代では代官と呼ばれることもあった。

・代官(だいかん)

代官とは、領主に代わって任地の事務を司る者である。

農村・都市・港湾・鉱山などで税の徴収を行った。時代劇でたびたび使用される「悪代官」の言葉は有名である。

信長は家臣たちを城下に住まわせたため、かわりに代官が領主不在の知行地を管理した。

終わりに

時代劇や大河ドラマでこれらの言葉を耳にすることはあるが、その本来の意味を正確に理解している人は少ないのではないだろうか。

「外様」や「茶坊主」といった言葉は、現代でも使用されることがあり、特に「茶坊主」は悪い意味で使われることが多い。

しかし、これらの言葉の歴史的背景や意味を理解することで、映画やドラマなどを、より楽しむことができるだろう。

物語の背景や登場人物の関係性が、より明確に見えてくるはずである。

参考:歴史道 他
文 / 草の実堂編集部

 

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