隆姫女王の同母妹
祇子女王(のりこじょおう)
稲川 美紅(いながわ・みく)隆姫女王の同母妹。敦康親王妃。
※NHK大河ドラマ「光る君へ」公式サイトより。
祇子女王(ぎし/のりこ)が隆姫女王(藤原頼通正室)の同母妹ということは、具平親王(ともひら。村上天皇皇子)の娘説が採用されたようです。
※具平親王の庶子・藤原頼成(よりなり。藤原伊祐養子)の娘とする説もあります。
皇位継承の前途を絶たれた敦康親王と結婚し、一人娘の嫄子女王(げんし/もとこ)を産みました。
しかし、寛仁2年(1018年)に敦康親王が病で薨去。嫄子女王は子供のいなかった藤原頼通の養女(藤原嫄子)となり、祇子女王は女房として出仕したようです。
その際の女房名は進命婦(しんのみょうぶ)と呼ばれたそうですが、どのような意味があるのでしょうか。
今回は祇子女王の女房名と、その後の人生について紹介したいと思います。
女房名を掘り下げる
まずは、進命婦という女房名を分解してみましょう。
進:官職の三等官
命婦:中級貴族出身の女房(諸説あり)
進について、もう少し詳しく見ます。進という表記がなされた官庁は以下の通りです。
・春宮坊(とうぐうぼう。東宮坊)
・中宮職(ちゅうぐうしき)
・修理職(しゅりしき/すりしき)
・大膳職(だいぜんしき)
・京職(きょうしき)
それぞれ春宮(皇太子)と中宮のお世話・御所の修理・天皇陛下や、皇族がたのお食事・平安京の全般管理などを行いました。
これらの基本的な四等官は、大夫(かみ/たいふ)・亮(すけ/りょう)・進(じょう/しん)・属(さかん/ぞく)となり、進と属はさらに大少に分けられます。
進命婦ということは、本人か身内に進を拝命している可能性が高いでしょう。
ちなみに進の官職は、以下の官位に相当します。
大進:従六位上~従六位下
少進:従六位下~正七位上
皇族出身者から見ると、かなり低いですね。
しかし祇子女王の父親説もある藤原頼成は、具平親王の子でありながら蔵人所の雑色(ぞうしき。下働き)を勤めていたこともありました。
もし祇子女王が頼成の娘であるなら、身近にそのような人物がいても不思議ではなさそうです。
後に頼成は中級貴族と言える四位まで昇っているため、祇子女王が命婦と呼ばれるのは妥当でしょうか。
しかし「進」が誰に由来するのかは不明。この点については、今後の解明に期待です。
藤原頼通と再婚?
江戸幕末の系図集『系図纂要』によると、祇子女王は頼通と結婚したことになっています。
他の史料によると、頼通の妻は具平親王女となっており、祇子女王とは特定されていません。
しかし大河ドラマ「光る君へ」では隆姫女王の同母妹となっているため、こちらの説を採るようです。
※そうでなければ、わざわざ敦康親王の妃として登場させる意味が薄いため。
恐らくは敦康親王の薨去後、頼通と再婚するのでしょう。
ちなみに祇子女王が頼通と結婚しした場合、以下の子供たちを産んでいます。
【祇子女王と頼通の子供たち】
・橘俊綱(としつな):長元元年(1028年)生まれ、橘俊遠(としとお)の養子。
・覚円(かくえん):長元4年(1031年)生まれ、第34世天台座主・法勝寺初代別当。
・藤原定綱(さだつな):長元5年(1032年)生まれ、藤原経家(つねいえ)の養子。藤原家綱とも。
・藤原忠綱(ただつな):生年不詳、藤原信家の養子。
・藤原寛子(かんし/ひろこ):長元9年(1036年)生まれ、のち後冷泉天皇(親仁親王。後朱雀天皇の皇子)の皇后。
・藤原師実(もろざね):長久3年(1042年)生まれ、のち関白となる。
・女子(源経長室):生年不詳。
敦康親王との間には一人娘しか生まれなかったのに、頼通とは7人も生まれているのは、相性によるものでしょうか。
始めの方の子供たちは姉の隆姫女王に遠慮してか、養子に出したり出家させたりしています。
しかし五男の藤原師実は関白となり、長女の藤原寛子(道長女とは別人)は後冷泉天皇の皇后となりました。
頼通の扱い≒寵愛が移り代わったのか、あるいは隆姫女王に子がいなかったため、背に腹はかえられなかったのでしょうか。
祇子女王・略年表
・生年不詳
※祇子女王が女房となる?
・長和2年(1013年) 敦康親王と結婚
・長和5年(1016年) 嫄子女王を出産
・寛仁2年(1018年) 敦康親王と死別
※嫄子女王が藤原頼通の養女になる
※祇子女王が女房となる?
・時期不詳 藤原頼通と再婚する?
・長元元年(1028年) 橘俊綱を出産する
・長元4年(1031年) 覚円を出産する
・長元5年(1032年) 藤原定綱を出産する
・時期不詳 藤原忠綱を出産する
・長元9年(1036年) 藤原寛子を出産する
・長久3年(1042年) 藤原師実を出産する
・時期不詳 源経長室(女子)を出産する
・天喜元年(1053年) 世を去る
※死後に従二位を追贈される
初産(嫄子女王)が長和5年(1016年) 、確認できる最後の出産(藤原師実)が長久3年(1042年) と、実に26年間の開きがあります。
最後の出産が40代前半とすると、嫄子女王の出産が10代半ばになるため、祇子女王の生年は長保2年(1000年)ごろと推測できるかも知れません。
終わりに
今回は祇子女王について、その女房名などを考察してきました。
果たしてNHK大河ドラマ「光る君へ」ではどのような活躍が描かれるのか、楽しみですね!
※参考文献:
・角田文衛『王朝の映像』東京堂出版、1970年8月
・『歴史探訪に便利な日本史小典 6訂版』日正社、2010年2月
文 / 角田晶生(つのだ あきお)校正 / 草の実堂編集部
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