豊臣秀吉の後継者・秀頼は、時代が安土桃山から江戸に移行する激動期に、その出自と地位ゆえに悲劇的ともいえる人生を歩んだ人物として知られる。
一般に父は、太閤秀吉。母は浅井長政とお市の方の長女である浅井茶々(菊子)、通称淀殿とされ、1593(文禄2)年8月3日、大坂城二の丸で誕生した。
秀頼は、秀吉と茶々の間に出来た第2子とされる。
二人の間には、1589(天正17)年5月27日に山城淀城にて、長男・鶴松が生まれたが、その3年後に夭折している。
鶴松の死により、秀吉は後継者を甥の秀次に定め、養子として関白職を譲った。
すでに54歳となっていた秀吉は、もはや実子を得ることは無理と判断したのであろう。そんな中で生まれたのが秀頼だった。
しかし「誰が本当の父親なのか?」という疑問が、秀頼誕生当時から取り沙汰されてきた。
今回は2回に分けて、豊臣秀頼の実父が誰かということに焦点をあて、その謎を探っていこう。
その1では、江戸時代初期から秀頼の実父ではと噂が立ったという、大野治長・名古屋山三郎と、ドラマや小説などで淀殿との密通が描かれる石田三成について考える。
なお、浅井茶々(菊子)の名称は、本記事では淀殿で統一することとする。
大野治長説 ~江戸時代に唱えられた~
『明良洪範』は、16世紀後半から18世紀初頭までの徳川氏、諸大名、他の武士の言動・事跡などを収録した逸話集だ。
江戸時代中期頃に編纂されたとされ、著者は千駄ヶ谷の古刹・聖輪寺住持である増誉といわれる。
同書は秀頼の出生について、「淀殿が大野修理(大野治長)と密通し、捨君と秀頼君を産んだ。」と記し、「秀吉の死後、淀殿はいよいよ治長と情欲に耽った。大野は、邪智で淫乱であるが、容貌が美しかった。」と書いている。
大野とは、豊臣家の家臣・大野治長(おおの はるなが)のことである。
秀吉没後は、その中枢において活躍し、大坂の陣では秀頼・淀殿に殉じたことで知られる。
そんな治長と淀殿の密通に関しては、江戸時代初期より幾つかの書物に記されている。
毛利家家臣の『内藤元家宛内藤隆春書状』には、「大野修理と申し御前の能き人に候、おひろい様(秀頼)之御袋様(淀殿)と共に密通之事に候か」と記され、同じような記述は、奈良・興福寺の塔頭・多聞院に残る一級資料の『多聞院日記』にもある。
また、朝鮮出兵(慶長の役)で捕虜となり、一時日本に拘留された姜沆(きょうこう)が捕虜生活での見聞をまとめた『看羊録』では、「家康が淀殿を娶ろうとしたが、治長の子を宿していた淀殿が拒否し、縁談はまとまらなかった」と記している。
治長の母・大蔵卿局は、淀殿の乳母だった。つまり治長と淀殿とは乳母子(めのとご)の間柄になる。
古来より乳母子は、母を同じくする兄弟と同様に一生交際する習俗があった。
大蔵卿局と治長ら大野一族は、1573(天正元)年8月の小谷城落城での浅井家滅亡の後も、淀殿に付き従っていたと思われるが、1583(天正11)年の越前北ノ庄城の落城後は、淀殿も大野一族もその所在がよくわかっていない。
また、治長が秀吉に仕えた時期も不明だが、茶々が秀吉の側室となった1588(天正16)年頃かと推測されている。
ただ、1589(天正17)に治長は、丹後大野城を拠点として1万石を与えられ大名に列しているが、これは同年5月に淀殿が鶴松を産んだことに関連する祝賀での加増と思われる。
もし、この時点で秀吉が淀殿と治長の関係を疑っていたとすると、このような加増はあり得なかったのではないだろうか。
治長と淀殿は、どちらが年上かは不明(ほぼ同年代と推測される)だが、乳母子として兄妹同様の関係だった。だからと言って、そこに男女の関係がなかったとは言い切れないが、二人はあくまで精神的に近しい主従関係であったとみるのが妥当ではないか。
江戸時代に入ると、徳川氏に反逆した者は徹底的に評価を卑しめられた。特に豊臣家に臣従した者には厳しい評価が下された。
大野治長もそうした一人として、淀殿との密通者・秀頼の実父に仕立て上げられた可能性が高いのではと推測される。
名古屋山三郎説 ~恋慕したのは松の丸殿~
名古屋山三郎(なごや さんざぶろう)は、安土桃山から江戸初期の武将で、日本三大美少年の一人とされる。
15歳の時に蒲生氏郷に児小姓として仕え、九州征伐・小田原北条氏攻めに参加。その後、奥州征伐で功名を立てたが、氏郷の死去に伴い蒲生家を退去。
京都で悠々自適な浪人生活を送った後、美作津山藩の森忠政に仕えたが、主命による上意討に失敗して命を落とした。
山三郎は、類いまれなる美貌の持ち主であるとともに、遊芸・和歌・茶の湯にも通じる数寄ものでもあった。京都浪人時代には、蒲生氏郷の遺言により、金銀を豊富に賜っていたので、かなり派手な暮らしをしていたという。
彼は、美しい衣装を着て、豪華な刀・脇差を差し、傍らには美女を伴い、従者を従えて京都の町を歩いた。その姿を一目見ようと、見物人であふれたともいわれる。
その山三郎が、秀吉が朝鮮出兵で大坂を留守にした際、淀殿と不倫密通のうえ、秀頼の実父になったという噂が当時から流れた。
これについては、テレビでもお馴染みの歴史学者で、国際日本文化研究センター教授の磯田道史(いそだ みちふみ)氏は、山三郎に思いを寄せたのは淀殿ではなく、同じ秀吉側室・松の丸殿こと京極竜子であるとしている。
それは同氏が発見した『武辺雑談』から見出した「秀吉公寵愛の松の丸様が清水の花盛の時、山三郎を御覧候て、恋慕なされ、艶書下されたる」という記述からだという。
とにかく、山三郎はその美貌ゆえに女性から大いにモテて、数々の浮名を流していたのは事実のようだ。
ただ、淀殿との関係はあくまでも噂に過ぎないと思われる。
石田三成説 ~小説・ドラマなどでの寓話~
大野治長ほど語られてはいないが、淀殿は石田三成とも密通し、その結果できた子が秀頼だという説がある。
この説に則り、NHK大河ドラマ「独眼竜正宗」「功名が辻」などでは、淀殿と三成をさも怪しい関係のように描いていた。
しかし、治長・山三郎はともかく、三成が秀頼の実父の可能性は、限りなくゼロに近いといえるだろう。
淀殿が秀頼を懐妊したと考えられる、1592(文禄元)年10月~11月頃、三成は文禄の役のため渡海し朝鮮にいた。三成は、漢城に駐留して遠征軍の総奉行を務め、翌年、碧蹄館の戦い・幸州山城の戦いに参加した後に、名護屋城に戻っている。
つまり、三成が淀殿と密通するために日本へ戻る時間的余裕は、全くなかったと言える。
さて、ここまで一般に流布されている秀頼の実父説について、大野治長・名古屋山三郎・石田三成の3人について述べてきた。しかし、いずれも史実的には、秀頼の実父とはいえないようだ。
この続きは、その2にて。より秀頼の実父の可能性が高い説を、秀吉も含めて探っていきたいと思う。
※参考文献
磯田道史著『日本史を暴く』中央公論新社刊 2022.12
文 / 高野晃彰 校正 / 草の実堂編集部
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