聖域を血で穢すような抗争がなぜ起きたのか
伊勢神宮はその正式名称を「神宮」という。
天照大御神を祀る皇大神宮=内宮、産業の守り神である豊受大御神を祀る豊受大神宮=外宮をはじめ、14の別宮、43の摂社、24の末社、42所の所管社があり、これら125の宮社全てを含めて「神宮」と称する。
そうした神社の中で、その中心となるのは「皇大神宮=内宮」、「豊受大神宮=外宮」の2社ということになるだろう。
現在、伊勢神宮の正式な参拝ルートとしては、外宮にお参りを済ませてから内宮をお参りするとされている。
その理由は、神宮で行われる祭典「外宮先祭(げくうせんさい)」にあるという。
これは、まず外宮で祭儀が行われる習わしをいい、外宮の祭神・豊受大御神が、内宮の祭神・天照大御神の御饌都神、すなわち食事を司る神であることから、内宮の祭儀に先だって、御饌都神に食事を奉るため、祭典の順序にならって、神宮への参拝も外宮から内宮の順になったとされる。
しかし「神宮」の公式ホームページをみると、少しだけ不思議な感じがする。それは、内宮・外宮の立ち位置というか、微妙な関係というか……。
内宮・外宮をはじめとする125の宮社全てを含めて「神宮」とするとありながら、この違和感は何なのだろうか。
実はこの謎は、内宮・外宮の両宮が、鎌倉時代から室町時代にかけて「死者を出すような抗争」を繰り広げていたことにあるようだ。
現在では一体とされる伊勢神宮の内宮と外宮が、なぜそのような状態にあったのか。
伊勢神宮を「日本人の心のふるさと」として崇拝する人々には、少し驚きの内容になるかもしれないが、その理由を紹介していこう。
内宮の天照・外宮の豊受、どちらの主祭神が上位なのか
なぜ、内宮と外宮は対立関係にあったのか。
それは、どちらが上位でどちらが下位なのか、という単純な争いにあったようだ。
内宮の祭神は、皇室の皇祖神・天照大神である。
内宮の創立年代については『日本書紀』に詳しく、崇神天皇の時代に60~70年近く各地を彷徨ったうえで、垂仁天皇の26年になり、五十鈴川のほとりの宇治の地に鎮座したという。
一方、外宮については『日本書紀』には言及がない。その鎮座伝承に関しては、平安初期に成立した『止由気宮儀式帳(とゆけぐうぎしきちょう)』に詳しく記されている。
それによると、雄略天皇の夢に天照大神が現れ「自分は独り身ゆえに寂しい。朝夕に奉る御饌の神として、丹波から豊受神を迎えよ」と告げたという。
それで、豊受大神が宮川のほとりの山田原の地に迎えられ、そこに御饌殿が建てられ、天照大神をはじめ内宮の神々の朝夕の神饌を供える大御饌の義が始まったとされる。
もとより、内宮の垂仁天皇26年、外宮の雄略天皇22年の創建説には、歴史的な根拠はない。内宮は、天武天皇の時代(673~686年)による創始説、外宮は、『止由気宮儀式帳』が成立した平安初期創始説が有力だ。
神道における神々の神徳や役割については、人間の普通の感覚では中々計り知れないものがある。だが、天照大神の「自分の朝夕の食事をつくれ」という命のもと丹波国から移動してきた豊受大神は、いわば天照大神の家政婦的な役割で迎えられたようなものではないだろか。
豊受大神は『古事記』における天孫降臨の場面で「外宮の渡会に坐する神」と記されるが、この記述は平安以降に写本に書き写されたというのが定説だ。
この大神をめぐっては、江戸時代から現在まで様々な論議があるものの、元々は伊勢の土豪である渡会氏(わたらいうじ)が祀っていた地主神=豊受神が、内宮の発展にともない神宮に組み込まれた可能性が高い。
豊受神は豊穣神であったため、朝廷が主催する天照大神の御饌として編成替えがされたのだろう。
現地の地主神をいただく渡会氏は、平安時代初期までその誇りをもって独立した神としていたものの、それ以降は内宮=天照大神の下位になることに甘んじ、それゆえに内宮の禰宜(神官)を務める荒木田氏にも対抗意識を持つようになったと考えられるのだ。
鎌倉時代、経済的有利に立った外宮側が「対等・上位」を主張
こうして、平安時代は皇祖神・天照大神をいただく内宮が外宮の上位にあったが、鎌倉時代になると、この関係に変化が生じてきた。
下位とされていた外宮が、内宮に対し公然とその地位を対等、あるいは上位であるとの主張を始めたのである。
その背景には、内宮を後ろ盾にする荒木田氏の後塵を拝していた渡会氏が、元々は伊勢の地に先住して勢力を保持していた豪族であったこと。そして、何よりも内宮の門前町・宇治よりも、外宮の門前町・山田がその地理的な条件などから、常に宇治を経済的に上回っていたことが挙げられるだろう。
こうした状況から、外宮側はついに「豊受大神は、天照大神に先行する神=天地開闢の根源神・天之御中主神と同神」とし、皇祖神・天照大神の大元の神という、主張を突き付けたのである。
つまり、外宮の祭神=豊受大神は、本来天皇しか参拝することが許されない最高権威をもつ内宮の祭神=天照大神の上位であるとした。これにより、両宮の反目は表面化した。
室町時代に抗争激化
そして、室町時代に入るとその争いはエスカレートし、ついにそれぞれの聖域が血で穢されるという、神道では最も忌むべき事態に発展してしまったのだ。
1468(応仁2)年、内宮・宇治の神職(御師)たちが、山田に攻め入り街を焼き払った。
これに対し、外宮側の神職(御師)たちは、外宮の正殿に火を放って応戦、瑞垣内で自尽する者も出た。
1471(文明3)年には、外宮側が反撃し、宇治の街を焼き払い、戦火は内宮境内に及んだ。
境内は戦場となり、内宮正殿も血で穢された。
戦国時代には、この抗争は一層激しさを増したという。
山田の人口が約3万人であったのに対し、宇治は7千人弱であり、その圧倒的な兵的不利を埋めるために、内宮側が守護で戦国大名の北畠氏の介入を求めたこともあったようだ。
この争いにより、1434(永享6)年から1563(永禄6)年の期間、式年遷宮が約130年近く中絶を余儀なくされた。
神宮では公式サイトにて、「室町時代後期になると、役夫工米による遷宮費の徴収が困難になり、約120年あまりの間中断せざるを得なくなりました。」としているが、実態は内宮・外宮による戦乱の影響が大きかったのである。
※参考文献
古川順弘著 『神社に秘められた日本史の謎』宝島社刊 2024.9
文/高野晃彰 校正 / 草の実堂編集部
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