笹の才蔵
可児吉長(かによしなが)は、一般には才蔵(さいぞう)の名で知られている武将です。
笹を指物として背負っており、打ち捨てた敵の首に目印としてその葉を残したことから「笹の才蔵」とも呼ばれ、得物は槍を得意としたと伝えられています。
その生涯において、最終的に福島正則に仕えるまで何度も主君を変えていますが、武勇に秀でていたことは間違いのない人物で、関ケ原の合戦においては徳川家康からもその武勇を認められたと伝えられています。
放浪の武将 可児才蔵
吉長は、天文23年(1554年)に美濃の可児郡で生まれたと伝えられています。
その地の寺で育ち、宝蔵院流の槍術をその祖である覚禅房胤栄に学んだとされ、槍の達人であったとされています。
吉長が最初に仕えたのは美濃の斎藤龍興だったと言われており、その後に柴田勝家、明智光秀、前田利家、織田信孝、豊臣秀次、佐々成正、福島正則と早々たる武将たちに仕官したと伝えられています。
この中で最後の福島正則と前田利家を除けば、すべての主君が滅ぼされてしまっていることから、吉長は主君に恵まれなかった武将とも言えます。
主君・豊臣秀次と対立
ただし、吉長自身にも仕官先を渡り歩くことになった原因がありました。
武勇に秀でた故の頑固さです。豊臣秀次に仕えていた際の逸話が残されています。
天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでのことでした。徳川勢を攻めた秀次勢が逆に包囲されそうになったため、吉長は秀次に対し一時退却すべきと提言しました。しかしそれを受け入れられずに追い返されたと言います。
戦は吉長の見立ての通り秀次勢の敗北となり、秀次自身は馬すら手元になく徒歩で敗走したとされています。この退却時に乗馬した吉長と遭遇した秀次が、大将である自分に馬を譲るよう要請した事に対して、先の提言を無視されたこともあり、あっさり断るとその後出奔したと伝えられています。
福島正則への仕官
吉長は、その後自身と同じく槍の使い手として有名だったこともあってか、当時伊予国11万石を治めていた福島正則へと仕官しました。この時の吉長の碌は750石だったとされています。吉長は、天正18年(1590年)の小田原・北条攻めに従軍すると、北条氏規の韮山城攻略に加わりました。
自ら先頭に立って槍を振るった吉長の武威に驚いた氏規が、その名を尋ねたとも伝えられています。
笹の解釈
吉長が、戦場において自らが討ち取った敵の首に笹の葉を置いていた事で「笹の才蔵」と呼ばれたことは前述のしましたが、これにはもうひとつの説も存在しています。
それが、笹の葉を酒に見立て、討ち取った相手に酒を振るったとする説です。
どことなく風流を感じさせる説ではありますが、他の吉長の逸話からするとちょっと違うかもと思わせる説のようにも感じられます。
家康も称賛した武功
吉長は、慶長5年(1600年)の関ヶ原の合戦でも福島勢の先鋒を務めました。
この時、敵の首級をまず岐阜城の戦いでも3つ挙げると、続く関ヶ原の本戦においても17も挙げる戦ぶりで、家康からも直々に比類のない働きと賞賛されたと伝えられています。
吉長は、槍術を始めとした武技に長じることにのみ己の存在をかけて、終生一兵として生きた武将でした。
敢えて政などでの出世を望まず、合戦での武功を誉とした類まれな武士だったと思われます。
その潔さが大名などの為政者となった武士にはない、最大の魅力とも言える武将ではないでしょうか。
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