中国の端午の節句
日本の端午の節句は、子供の健やかな成長を願って「鯉のぼり」を立てる。
中国、台湾その他のアジアの国では「端午節」として祝われ、休日となる。
そして、端午節が近づくとあちこちで粽子(ツォンズ)と呼ばれる「ちまき」が販売される。
粽子は三角の形をし、マコモタケ(イネ科の多年草/別名ハナガツミ)の葉で包まれている。
中にはアワやもち米、肉、卵、落花生などの具材が入っていて、それを蒸して食べるのである。
その歴史は古く、2000年前の春秋時代から始まったと見られている。
その当時は、牛の角の様な形であったと表現されたり、また竹筒の中に具材詰めて煮たと言う記述もある。現在でも竹筒の状態で販売されている事もあるが、主流はマコモタケの葉で包まれたものである。
ちなみに好き嫌いにもよるが、竹筒の粽子は竹の風味がして非常に美味しい。
では、なぜ端午節に粽子が食べられるようになったのだろうか?
詩人 屈原
端午節に粽子を食べられる様になったのには、ある人物の死が関係している。
それは、春秋時代の楚懐王の大臣であった屈原(くつげん)という人物である。
彼は楚国で才能あるものを集めて兵を強め、秦に抵抗しようとした。
ところが、当時の貴族達からの猛烈な反対に遭い、彼は失脚せざるをえなくなった。
そして泣く泣く都を追い出されたのである。
その間、楚国のことを想っていくつかの詩篇を書いた。
紀元前278年、ついに秦軍が楚国の都に侵略した。自分の祖国が侵略され滅亡していく様を目の当たりにして、屈原は堪え難い苦痛を味わったという。
そして5月5日、最後の遺作「懐沙」を書き記し、汨羅江(現在の湖南省流れる河。長江右岸支流)に身を投げた。
自分の命をもって愛国の詩篇を書き上げたのである。
彼の死後、楚国の人たちは屈原の死を大いに嘆いた。
ある者は、船出して屈原の遺体を探しだし埋葬しようとした。
ある者は、米や卵などの食べ物を川に投げ入れた。「川の魚やエビ、カニなどが屈原の遺体を食べないように」という願いが込められていた。
それ以降、植物の葉で米を包み蒸したものが投げられるようになり、それが発展して中に具材がたくさんある「粽子」へと変わっていった。
ある老医者は「雄黄酒」を川に流した。川に住むと信じられていた水獣がその毒性で酔い、屈原の体を食べないようにするためだ。
それ以降「雄黄酒」は端午節に飲まれるようになったが、現代になって毒性があるといことが判明した。雄黄はヒ素の硫化鉱物で、古代では黄色顔料の元として使用されていた。
中国では、解毒剤や殺虫剤として使われることもあり、水の中に入れると様々な毒浄化がされると信じられていた。
毎年農暦の5月5日に、楚国「屈原」を記念して粽子が食べられるようになった。
龍船(ドラゴンボート)
屈原に由来したもう一つの習慣は「龍船レース」である。
龍の形をした船で速さを競う。
これも屈原の死を悼んで始まったとされ、楚国人たちが屈原の体をいち早く引き上げようとして、こぞって船出した。
船を漕いで水面を流動させることによって、魚が屈原の体を食べてしまわないようにするためだという。
中国の端午節の、もう一つの習慣を紹介しよう。
五色の紐(青、赤、白、黒、黄色)を、子供の腕や足に結ぶ。
五色は五行を表していて、陰陽の説によると五つの方角を表している。
様々な災難から子供を守り、吉兆をもたらすという願いが込められているのである。
端午節の早朝、大人は起床してすぐに子供の腕、足首、首に五色の紐を巻く。
紐を巻いている間は話してはいけない。子供はこれを故意に切ってはならず、夏の最初の大雨の時に川に流しても良いと言われている。
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