現代社会、特に日本を含めた先進国は、「飽食の時代」と言われて久しい。
コンビニエンスストアやスーパーマーケットだけではなく、飲食店・通信販売でも、世界各国の様々な食材・料理を口にすることができる。しかし、当然のことながら現代の日本で食べられている食事の多くは、古来から食べられていたものではない。
当然、それらの料理や食材と日本人との「出会い」があり、それを食事に取り入れようという動きがあったからこそ、今日のように人々が口にすることになったわけであろう。
この記事では、そうした日本人にとっての「新しい食べ物」との出会い、そして当時はその食べ物がどのような評価を受けていたかという点に着目して解説してみよう。
コーヒーは「水腫病」の薬だった!?
現代では、喫茶店や専門ショップだけではなく、自宅でも本格的な味が楽しめるようになったコーヒーだが、日本人とコーヒーとの出会いは江戸時代にまでさかのぼることになる。日本に最初にコーヒーが持ち込まれたのは、当時最大ともいえる貿易港、長崎出島であったとされる。
1782年、蘭学者であった志筑忠雄の著書、「万国管窺」の中に、「コッヒー」という単語が見える。コーヒーよりも実際の発音に近いといえる。しかしながら当時、日本でコーヒーを口にしていたのはごく限られた人々だった。
そこで、オランダ商館にいたドイツ人医師のシーボルトは、「日本人は身体に良いということを説明すればもっと飲むようになるだろう」と述べている。
日本人の「健康オタク」は、当時から変わりがなかったようだ。また、コーヒーに含まれる栄養(当時はまだ発見されていなかったが、ビタミンと思われる)を期待したものと思われるエピソードとして、会津藩が幕府からの命によって行った1807年から1809年の樺太出兵が挙げられる。
寒い地域では野菜が摂取できず、兵が水腫病となることが多かった。そこで、水腫に効果があるとしてコーヒー豆が支給されたのだという。
つまり、今日のような嗜好品ではなく、薬や栄養補助食品、今日で言うところの栄養ドリンクや野菜ジュースのような役割を期待されたのであろう。なお、コーヒーが一般国民の口に広く入るようになるのは、「文明開化」の時代とも言われた明治時代で、東京・下谷黒門町に「可否茶館」が開店し、コーヒーを一銭五厘で提供したのが嚆矢であったと言えよう。
「あいすくりん」は一人前で8000円!?
「アイスクリーム」という英語が、かつて日本では「あいすくりん」と呼ばれていたことを知っている人もいるだろう。
冷菓と人類の歴史は古く、今日のものとは異なるが、古代エジプトや中国の殷王朝の時代には、すでにシャーベット状の食べ物が冷菓として楽しまれていたようだ。
日本で初めてアイスクリームが製造されたのは、1869年であるとされる。遣米使節団の一員として渡米した町田房蔵が、米国に渡航した経験のある出島松蔵から製法を学び、横浜の「氷水屋」で販売したとされる。
ちなみに、はじめてアイスクリームを米国で食べた日米通商使節団のメンバーの様子を航海日誌に記した柳川当清は、「珍しきものあり。氷を色々に染め、物の形を作り、是を出す。味は至って甘く、口中に入るるに忽ち溶けて、誠に美味なり。之をアイスクリンといふ。」としている。やはり当時の日本人にとっては衝撃的な食べ物であったようだ。
なお、町田が販売していた当時の「あいすくりん」は、現在のように多様なフレーバーなどはなく、砂糖と牛乳、そして卵黄という極めてシンプルな製法であったにも関わらず、一人前の値段が2分(現在の価格に直すと約8000円前後)とかなりの高級料理であった。
大正9年には、アイスクリームが工業的に生産されるようになる。米国製のフリーザーを導入し、冨士乳業(現:森永乳業グループ)、極東練乳三島工場(現:明治)、自助園農場(現:雪印乳業)がアイスクリームの製造に携わっていったのである。
カレーライスは「食う気になれず」…でも1日おきにカレー食!?
今日では多くの人が口にする「カレーライス」が、インド料理を元に作られたものであることを知る人は多い。
しかし、日本にカレーを伝えたのはインドではなく、イギリスである。これは、インドのカレーがイギリスに伝わった際に、「とろみ」を加えるために小麦粉を加えたものが日本に伝わったことが理由とされる。日本で初めてカレーを紹介したのは福沢諭吉であるとされ、「増訂華英通語」という本に紹介されたのが1860年のことであった。
1871年、日本初の「物理学者」である山川健次郎が米国へ留学する際の船上で、初めてライスカレーに出会っている。しかし、このときの山川の記録では、「食う気になれず」との記録があり、やはり当時の日本人にとってスパイスの匂いは受け入れがたいものであったのかと推察される。
1872年、敬学堂主人の「西洋料理指南」には、カレーライスの調理法が記されている。ここには、食材のひとつとして「アカガエル」が加えられていたり、玉ねぎではなく長ネギを使用している、エビやタイといった海鮮が中心の具材となっているなど、今日食べられるカレーとは若干の違いがあったことがうかがえる。
さて、山川をして「食う気になれず」と評されたカレーライスだったが、これが積極的に食事に取り入れられていたのが、今日の北海道大学、当時の「札幌農学校」である。
クラーク博士は、札幌農学校において1日おきにライスカレーを食すよう発案したとされている。
当時の札幌農学校の人々はどのような反応であったのだろうか。なお、ほぼ同時期には、当時の陸海軍にも「ライスカレー」(陸軍)、「カレイライス」(海軍)が導入された。
栄養を補えるカレーライスは、当時の軍隊にとってもありがたいレシピであったことだろう。
戦場でお腹が空いた?それならタピオカだ!
近年では、主に若い世代を中心として「タピオカ」がブームとなっている。
実は日本では過去にも何度か「タピオカブーム」は訪れているのだが、日本人とタピオカとの出会いや江戸時代後期であるとされる。
蘭学者の高野長英はタピオカに「答必膃加」という文字を当て、医薬書に記載している。明治時代にはいわゆる「ハイカラ食」として知られ、大正時代にはすでに料理の本に紹介されていたという。
タピオカについては、もともと熱帯地域では主食とされるものであるのだが、日本人も「食事」としてタピオカを摂取していたことがある。
もっともそれは国内よりは、食料が枯渇しがちな戦場の前線であったようだ。1942年、日本はイギリス領であったシンガポールを占領し、ジャワ島(限インドネシア)をも支配下に置いている。ジャワ島はタピオカの産地であったことから、陸軍資料には現地の資源として「タピオカ」とカタカナで書かれたものが存在する。
現代人にとってはどこか奇妙な感覚かもしれない。なお、タピオカに対する反応としては、「米と混合しても判別し難く、食味も可良なる」と記載されていることから、兵士たちの間で不評というわけではなかったようだ。
今日では間食やデザート、または飲み物に添加して楽しむ「嗜好品」に近い扱いであるが、補給が乏しく食料も不足しがちだった当時にとっては、タピオカは兵士たちにとって重要な食料のひとつであったことをうかがわせるエピソードだ。
おわりに
文化は一つの国や領域だけで形作られるだけではない。他の文化と出会って、様々に変容するのもまた文化である。
日本もまた、西洋やアジア地域の文化と出会い、それを自国で取り入れることで進歩してきた。新しい文化との出会いは当然、摩擦や葛藤を生むこともあるだろう。しかし、そうして徐々に他の文化を取り入れたからこそ、今日の日本の食卓がある。
見知らぬ食べ物や文化に触れ、それをなんとか自国に持ち込もうとしたり、取り入れようとし、その結果、豊かな日本の食卓を切り開いた先人たちの度量と労苦には、改めて敬意を表したいところだ。
この記事へのコメントはありません。