ミグ25 突然の領空侵犯の恐れ
それは1976年9月6日の午後1時過ぎに起きました。当時は冷戦と言われるアメリカとソ連が常に対峙し、緊張が続いていた時代でした。
ソ連の最新鋭の戦闘機であるミグ25数機が、ウラジオストクから約300kmほど北東に離れた基地から飛び立ち、その中の1機であるヴィクトル・ベレンコ中尉が乗った機体が僚機と離れ日本の領空へと向かってきたのでした。
日本側ではレーダーでこの動きを感知すると、領空侵犯に備えて航空自衛隊の北海道千歳基地に所属するF-4EJファントム戦闘機をスクランブル発進させました。
自衛隊では補足不能な低空飛行
このとき航空自衛隊では発進したF-4EJファントムと陸上のレーダーとを使って、日本の領空へと近づいていたミグ25を補足しようと試みていました。
しかし超低空を飛来してきたミグ25に対し陸上のレーダーは補足することが出来ず、また飛行中のF-4EJファントムも自らよりも低い位置を飛行する物体を補足することは出来ませんでした。
当時これが可能な戦闘機は、アメリカがようやく配備し始めたF-14若しくはF-15しか存在せず、航空自衛隊にはその能力はありませんでした。
空港は警察の管轄
こうして日本側の航空自衛隊の捜索網に捕捉されずに日本領空へと侵入したミグ25は、同日午後1時50分頃に函館空港へと舞い降りてきました。
操縦していたべレンコ中尉は所持していた拳銃を取りだすと威嚇射撃をして、近づく空港関係者を牽制しました。
その後の午後2時10分過ぎに北海道警察の手によって函館空港は封鎖され、駆け付けた自衛隊員らも国内の空港において発生した事象であり、警察の管轄であるとの判断で遠ざけられることになりました。
べレンコ中尉の亡命と臨戦態勢
その後すぐに北海道警察はべレンコ中尉の取り調べを行い、その目的がアメリカへの亡命であることが判明しました。
ソ連政府はべレンコ中尉及びミグ25の即時引き渡しを求めてきましたが、日本政府は翌日の7日にべレンコ中尉を東京へと移送し、続く8日には早々とアメリカ政府が亡命を認める発表を行いました。
更に翌9日、ソ連の大使館職員がべレンコへの面会を行い亡命の撤回を促しましたが不調に終わり、同日のうちにべレンコ中尉はアメリカへと移送されました。
この時点でミグ25自体は未だ函館空港にあり、当時のソ連の最新鋭戦闘機であったことからソ連側が何らかの実力行使に出る事も懸念されたため、陸上自衛隊の戦車や防空用の機関砲が函館空港に持ち込まれることになりました。また海上自衛隊の艦艇も3隻を日本海方面へ、2隻を太平洋方面に展開させて万一の事態に備える臨戦態勢が敷かれました。
早期警戒機の導入に寄与
こうした中で9月24日にアメリカ軍と航空自衛隊は、機体の検査のためにミグ25を分解して茨城県の航空自衛隊百里基地へと運びました。
この検査が完了した後の同年11月15日に、ようやくミグ25はソ連へと返還されました。この騒動ではべレンコ中尉の目的がアメリカへの亡命であったことで軍事衝突とという戦闘行為は避けられたものの、図らずも日本の領空防衛力の危うさが露呈することになりました。この教訓から早期警戒機の導入が実施されることに繋がりました。
ソ連軍の過大評価の是正
当時のアメリカや西側諸国では、この事件までミグ25を超高速を誇る強力な戦闘機と認識していたと言われています。
巷説ではこれに対抗するためにF-15を開発したとも言われていました。
しかし、調査した後にミグ25はそれほど優れた戦闘機ではなかったことが判明しました。殊にチタニウム合金で造られていると目された機体が単なるステンレス鋼板だったことなど、西側の戦闘機のレベルと比較すると著しく劣っているとさえ言え、ソ連軍の兵器を過大に評価する言説に陰りが生ずる事件ともなりました。
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