ディアトロフ峠事件とは、1959年にロシア(当時はソビエト連邦)のウラル山脈で、雪山登山グループの9人全員が不可解な死を遂げた遭難事件である。
氷点下30度を下回る雪山で見つかった遺体は、全員が靴を履いていなかった。女性メンバーの一人は舌がなくなっており、二人の衣服からは異常な濃度の放射能が検知された。
人々が「死の山」と呼ぶ雪山で、9人の身にいったい何が起きたのか?
今回は、不気味なディアトロフ峠事件の謎に迫ってみる。
ディアトロフ峠事件の経緯
1959年1月23日、ソ連領ウラル山脈北部のオトルテン山に向けて、イーゴリ・ディアトロフをリーダーとする雪山登山グループが出発した。
男性8人と女性2人の計10人のグループのうち、9人がウラル科学技術学校(現ウラル工科大学)の学生と卒業生だった。
20代前半の若者グループの中にただ一人、出発間際に参加を申し出た37歳の男がいた。その男は、退役軍人によく見られる入れ墨をしており、メンバーと顔を合わせるのは初めてだった。
途中、一人が体調不良で帰ることになり、メンバーは男性7人と女性2人の9人となる。
2月1日、一行はオトルテン山登頂を翌日に控え、ホラチャフリ山の東斜面にテントを設営することにした。
ホラチャフリ山は、先住民マンシ族の言葉で「死の山」を意味するという。
テント設営の際、斜面の雪を掘って平らにするのに時間を要したが、翌日に備えて午後9時に彼らはテントに入った。そして、悲劇が起こることとなる。
捜索隊により発見された無残な姿
予定日の2月13日を大幅に過ぎてもメンバーが帰着しないことを受けて、大規模な捜索が始まった。空と地上の両方から行われた捜索は難航を極めたが、2月26日、地上隊がまずテントを発見した。
柱はまっすぐに立っていたもののテントの一部はつぶれ、大部分が雪に埋もれていた。テントの中に遺体はなかった。特に荒らされた様子もなく整然としており、スキーブーツがきちんと並べられていた。
ただテントの奥に、人ひとりが通れるくらいの大きさに破れた箇所があった。これは後の捜査で、内側から意図的に刃物で引き裂かれたものと判明する。
翌2月27日、テントから1キロほど離れた雪の中から、二人の男性の遺体が見つかった。氷点下30度を下回る雪山で二人とも上着を着ておらず、ズボンも靴も履いていない。一人は眼球と口がなくなっていて、これは鳥によるものだと推測された。
二人の遺体から数百メートル離れた地点で、リーダーのイーゴリ・ディアトロフの遺体が発見された。彼は上着を着ておらず、両腕を胸の前で交差した格好をしていた。
さらにイーゴリの遺体発見場所からテントの方向に数百メートル行ったところで、女性の遺体が発見された。イーゴリも女性も靴を履いていなかった。
3月5日、五人目となる男性の遺体が見つかる。イーゴリと女性の遺体のちょうど中間地点にうつ伏せに横たわった状態で、顔は鈍器で殴られたように変色していた。彼もやはり靴を履いていなかった。
解剖の結果、5人の死因は低体温症とされた。
5月4日、イーゴリの遺体発見現場近くの小さな峡谷の谷底から4人の遺体が発見された。融雪と川の水につかっていたため腐敗が進んでおり、唯一判別できたのは女性の遺体だけだった。
3人の男性のうち一人は37歳の元軍人の男で、肋骨が5本折れており出血が見られた。もう一人の男性は、頭蓋骨を骨折して大量に出血していた。
最も不可解だったのは女性の遺体だった。心臓に内出血があり肋骨は9本折れていた。異様なのは舌がなくなっていたことだ。
4人の検死の結果、一人は低体温症、残る3人の骨折は外からの強い力によるもので、死因は「暴力的な外傷」と結論付けられた。
4人とも靴を履いておらず、奇妙なことに37歳の男性と女性の服からは、異常な濃度の放射能が検出された。
5月28日、ソ連当局は9人の死因は「未知の不可抗力」であるとし、事件の全容は解明されることなく捜査は終了となった。その後、事件現場はリーダーの名前を取って「ディアトロフ峠」と呼ばれるようになる。
科学に基づいた最新説
ソ連という秘密主義の国で発生したこの不可解な事件は、憶測が憶測を呼び、60年以上にわたって雪崩説、軍事実験説、UFO説など、さまざまな仮説が唱えられてきた。
2021年、スイス連邦工科大学の二人の研究者は、事件の原因は「小規模な雪崩だった」という仮説を論文に発表した。
彼らは車の衝突実験のデータや地形データ、降雪記録などをもとに事件当時の環境条件をコンピュータでシミュレーションし、これまで雪崩説が疑問視される原因となった次の3点を明らかにしたのである。
・傾斜の緩い斜面でどのように雪崩が起きたのか
・なぜ現場に雪崩の形跡がなかったのか
・雪崩では通常みられない外傷を負ったメンバーがいたのはなぜか
一般的に雪崩は傾斜が30度以上になると発生しやすくなり、特に35度~45度が最も危険と言われている。ディアトロフ峠事件の現場付近の平均傾斜角は23度であり、当初から雪崩が起きる可能性は低いと言われていた。
しかし再測定したところ、28度あったことが判明。十分に雪崩が発生しうる数値だった。
また、遺体発見までの間に降り続けた雪によって雪崩の痕跡が消え、傾斜がさらになだらかになった可能性があることを二人は突き止めた。
さらに遭難現場周辺の気象条件から、斜面の下層付近には雪崩を誘発する「しもざらめ雪」が積もっていた可能性が浮上する。
ディアトロフ隊は、斜面の雪を削り平にしてテントを設営したため、斜面はとても不安定になっていた。そのまま雪崩が起きてもおかしくない状況だったが、その時には雪崩が起きるほどの積雪がなかった。
事件当夜、雪が降った記録はなかったが、彼らの残した日記には「非常に強い風が吹いていた」と記されている。この強風によって山の上方から大量の雪がテント上の斜面に運ばれ、雪崩が発生するのに十分な積雪となった。不安定になっていた斜面にさらに負荷がかかる。そして、夜中に突如として雪崩が発生したのだ。
ディアトロフ峠事件で発見された遺体には頭蓋骨や肋骨の骨折が見られ、雪崩によってできる外傷とは様相が異なっているようにも見える。
シミュレーションによると雪崩は小規模なもので、雪塊は長さ約5メートル。車1台分ほどのこの小さな雪崩はテントの一部を押しつぶし、メンバーの頭蓋骨と肋骨を骨折させるのに十分だった。
さらにメンバーが横たわった状態を想定した外傷のシミュレーションでは、この雪崩によって受ける外傷が検視報告と一致することが証明された。
夜間、眠りについた一行を突然の雪崩が襲う。凄まじい速さと力で押し寄せる雪塊にテントは押しつぶされ、3人が重傷を負った。だれかがテントの内側をナイフで切り裂き、メンバーは着の身着のまま、靴も履かずにテントの外へ飛び出していく。
その後、一行は斜面を1.5キロメートルほど下った森の中に逃げ込んだが、極寒の雪山でなすすべもなかった。
全員がテントの外で亡くなっていたのは、軽症者が重傷者を救けようとしてテントから引きずり出したからだろう。重傷を負って歩くこともままならないメンバーを、誰も見捨てはしなかったのだ。
論文発表の後、「死の山」では現地調査が3回にわたって行われ、地形的に雪崩が起こりやすいことと、テントの上方の斜面の傾斜角が雪崩を起こすのに十分であることが確認された。
2022年1月には、ディアトロフ峠事件と同じような状況下において、2回雪崩が発生したことが確認されている。
解明されない謎
スイスの二人の研究者は、従来の雪崩説で判然としなかった点を科学的根拠に基づいて明らかにしてくれた。
しかし、着衣から高い放射能が検知された理由や女性の遺体から舌がなくなっていた理由は、未だ解明されていない。
また、メンバーが撮った写真には「奇妙な光る物体」が映っており、これについても謎のままである。事件当時、現場付近では火球が多数目撃されており、これはUFO説やミサイル説、核実験説の元となった。
このロシアの未解決事件は、小説やドキュメンタリー、映画にもなった。
60年以上の長きにわたって、人々の関心を集め続ける「ディアトロフ峠事件」の真相は、まだ闇の中である。
参考文献
・ドニー・アイカー著、安原和見訳.『死に山: 世界一不気味な遭難事故《ディアトロフ峠事件》の真相』
・『9人が怪死「ディアトロフ峠事件」の真相を科学的に解明か、陰謀論が渦巻くソ連時代の惨劇』. NATIONAL GEOGRAPHIC
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