大正15年(1926)8月20日、千葉県の農村で連続殺傷放火事件が起きた。
犯人は岩淵熊次郎(いわぶち くまじろう)といい、発端は痴情のもつれによる単純な犯行であったが、熊次郎は『鬼熊』と呼ばれて日本中から注目されることになった。
しかし、熊次郎は不思議と村人たちから匿われ、40日余りも警察から逃げ続けたのである。
その背景には一体何があったのか。ここでは『鬼熊事件』について追求する。
鬼熊現る
大正15年(1926)8月20日、千葉県香取郡久賀村(現・多古町)で荷馬車引き・岩淵熊次郎(35)が、自身と深い仲にあった酌婦・吉澤ケイ(27)を薪で撲殺した。殺害した理由は、ケイが他の情夫と交際していたことであった。
その後、熊次郎はけいと情夫の仲を取り持っていた知人の家を放火し、けいと交際していた情夫と、けいが働いていた店の店主も殺害し、駆けつけた警官に重傷を負わせて山中に逃亡した。
地元紙が熊次郎のことを『鬼熊』と載せたことがきっかけで、そう呼ばれるようになり、以降、日本中から注目されるようになった。
9月11日、熊次郎は張り込みをしていた多古署の巡査に見つかったため、持っていた鎌で殺害して逃走した。
この鬼熊事件は、連日報道されて大ニュースとなった。
なぜか村人たちが助ける
事件の捜査で行われた山狩りは24回、洞窟や空き家などの検索は25回にも上った。動員された警察官は約7千人、かかった経費は現在の金額に換算すると約5500万円になった。これは当時の千葉県警察部年間予算の約半分であったという。
しかし、これだけ人員を動員したにもかかわらず、熊次郎は一向に見つからなかった。
これは警察の不手際として県議会でも追及されたが、警察は熊次郎の逮捕が遅れた理由として、包囲区域が広大であったことや、新聞記者などが大勢現場にいたため捜査方針の秘密を保てなかったことなどを挙げたが、一番の理由としては「捜査区域内の人たちが熊次郎に同情し、情報をなかなか提供しようとしなかった」とした。
実は捜索を開始して比較的初期の段階で「熊次郎がなかなか見つからないのは、誰かの助けがあるからではないか?」という意見はあった。
その後、判明するのだが、なんと村人たちだけではなく消防組員たちまでもが熊次郎に食料を与え、実質的に逃亡を助けていたのである。
後に新聞でも、ある村人が「鬼熊が来たらメシでも食わせてやれ」と話していたことが紹介され、熊次郎自身も記者の独占インタビューで「おれが戸を叩くと、たいていのウチでは内密で泊めてくれたり、飯を食わせてくれたよ」とコメントしている。
なぜ村人たちは熊次郎を助けたのか?
熊次郎は荷馬車引きだけでなく馬の売買もしており、馬車引きや馬喰の間で兄貴分的な存在であった。
熊次郎はケンカをしている人たちがいれば、必ず出て行って弱い者の方の味方をしたという。恩義を受けた人のためならどんな困難もいとわず力を尽くし、馬車引き仲間からの信頼も厚かった。
また、村人から頼まれると二つ返事で荷物を運んだという。熊次郎は地元の人々から親しまれていたうえ、事件で殺傷したのは恨みを持っていた相手と警察官だけであり、無関係の人には危害を加えなかった。
逆に殺害された酌婦・吉澤ケイや店主は、色仕掛けで商売を行うなど、村人たちからあまり好かれていなかった。また、村の人々は「実直な熊次郎が、あばずれ女に騙されている」と噂して交際にも反対していたという。
そのため、村人たちは熊次郎に同情し、食事を与えたり警察に嘘の情報を流したりしていたのである。
また、当時は強い支配力を持っていた警察に対する住民の反感も強かった。
これらのことが要因となり、住民たちは熊次郎の逃亡を助け、40日余りも逃げ続けることができたとされている。
鬼熊の最期
山狩りと検索が続けられる中で、熊次郎は9月18日に農家から米と鶏1羽を盗み、翌日に別の農家に押しかけて鶏飯を作らせて食べたという。
25日夕方、熊次郎は消防組部長の自宅に行き「俺はもうダメだ。自殺する」と話した。部長は自首するように説得したが、熊次郎は頑なに拒否した。
26日夕方には、熊次郎と面識があった坂本記者のもとにも熊次郎出現の連絡が入った。
その後、坂本記者は極秘に山の中で熊次郎と会った。その際に熊次郎は「世の中を騒がせて申し訳ない。どうせ死刑だし、無期でも監獄にぶち込まれるのは嫌だ」と話したという。
熊次郎はすぐに自殺すると言ったが、差し入れの焼酎を飲んで泥酔し寝てしまったため、その時は死ねなかった。28日夜に坂本記者がもう1度会いに行くと、熊次郎はカミソリで首を切って大量の出血をしたが、傷が浅く死にきれなかった。
坂本は熊次郎の兄・清次郎に相談し、熊次郎の姉婿が自宅から持ち出した毒物・ストリキニーネを最中に入れ、それを熊次郎に食べさせた。
それから消防組員も加わり、瀕死の熊次郎を岩淵家の墓の前まで運び、自殺に見せかけたという。そして消防組員は警察に「鬼熊を発見した」と届け出た。
警察が駆け付けた後、熊次郎は30日正午前に死亡した。
その後、警察は現場にいた兄の清次郎や坂本記者、消防組部長、複数の消防組員などを「犯人蔵匿、自殺幇助」の疑いで取り調べた。
当時の刑法では「親族の犯人蔵匿罪は罰せられない」とされていたため、最終的に親族ではない坂本記者や消防組部長などが「犯人蔵匿罪」のみの執行猶予付きの温情判決となり、他の村人たちは無罪となった。
時代背景
当時の日本は関東大震災からの復興、不況の進行、農村では小作争議が頻発していた。
世の中がすっきりしない状況にあり、時代が大きく変化する中でこの「鬼熊事件」が起きた。
熊次郎は大捜査陣を相手に逃げて翻弄し、最後は自殺を図った。
そんな経緯が当時の人々に受け入れられたのか、日本中から注目を集めた「鬼熊」は後に小説・ドラマ化されている。
国内だけでなくイギリスの日刊紙『タイムズ』でもニュースに取り上げられたという。
参考文献 加太こうじ 「昭和事件史」 一声社 1985
小池新 「戦前昭和の猟奇事件」 文藝春秋 2021
自主は自首のミスでしょうか?
ご指摘ありがとうございます!
修正させていただきました。