大正14年(1925)9月5日、女優・中山歌子宅で、歌子の養女と義妹夫婦の3人の絞殺死体が発見された。
その後、警察は犯行を自白した1人の男を逮捕したが、その男の犯行を裏付ける物的証拠があがらないまま男は獄中死してしまった。
しばらくして、千住の醤油屋一家が殺害される事件が起き、その事件で逮捕された真犯人が歌子宅での事件の犯行を自白したのだった。
なぜ最初に誤認逮捕された男は「自白」したのだろうか。そして女優宅で起きた事件の裏で、一体何が起こっていたのか。
ここでは「大岡山三人殺し」「女優一家三人殺し」とも呼ばれた大岡山事件について追求する。
事件発生
大正14年(1925)9月5日午後、荏原郡碑衾町(現・目黒区)大岡山にある女優・中山歌子(28)〔本名・山中さだ〕宅で、彼女の義妹・愛子(25)〔本名・山中ぬい〕とその内縁の夫・清水徹三(23)、そして歌子の養女(9)の3人の遺体が発見された。
歌子は、病気の療養で鎌倉にいたため現場にはいなかった。
前日から戸締りがされたままで、歌子宅で人の出入りが見られないことを不審に思った近所の人によって発見されたという。
3人は蚊帳の中のふとんの上で亡くなっており、状況からして一家心中かとも思われたが、解剖の結果3人とも絞殺されたことがわかった。
家からは銀行の預金通帳と印鑑、財布などが無くなっており、物盗りによる犯行と推定された。
事件当日の5日午前には、盗まれた通帳を使って520円(現在の約80万円)が引き出されていたこともわかった。
銀行員の話では「引き出しに来たのは40歳前後のみすぼらしい洋服を着た男で、片目に眼帯をしていた」という。
女優・中山歌子
家主の中山歌子は、明治44年(1911)に帝劇歌劇部の第1期生になり、多くの舞台に出演し第一線の歌劇女優になった。
その後は映画にも進出し、日活のトップスターとして活躍した。
大正11年(1922)に『船頭小唄』をレコーディングしヒットしたが、翌大正12年(1923)に肺結核を患い女優活動が出来なくなったため、事実上引退していた。
義妹・ぬいも「愛子」という芸名で一時、日活向島撮影所で女優をしていた。
歌子は日活の重役と関係があるなど素行上の問題が絶えず、愛子が映画女優として活躍できたのも歌子と重役の関係があったからだという。
事件発生の翌日、歌子は鎌倉から駆けつけた。
歌子は記者に
「突然の知らせに本当に真実とは思えなかった。事件の原因の見当はつかないがお金が目的かもしれない」
とコメントしている。
警察は歌子の周辺の人々を取り調べたが何も証拠が見つからず、結局事件は迷宮入りをしてしまった。
翌大正15年(1926)、事件からひどいショックを受けていた歌子は天理教に入り、その頃に受けた雑誌のインタビューで
「私は自分1人が生き残ったことを幸福だとは思えない」「不治といわれる胸の病気の私が、今後どうやって1人寂しく生きていくのか」
などと語った。
その後病状が進み、昭和3年(1928)4月、歌子は34歳で死去した。
犯人に仕立て上げられた男
事件発生から1年が経った大正15年(1926)9月末頃、日暮里警察署で田宮頼太郎(28)という男が検挙された。
田宮は金貸し業を営んでおり、当時、偶然にも1人の男性を相手どり150円の詐欺告訴を日暮里署に提起していたことで、取り調べの最中だった。
その時、田宮の態度などに妙なところがあり、署長は直感的に「田宮が何か大きな犯罪に関わっている」と感じた。
署長は田宮を留置して取り調べを行うと、田宮は「強盗目的で歌子宅に押し入った」とあっさり自白したのだった。
田宮の自白は当時の現場状況と合っているところがあり、犯人は田宮であるとされた。
結局、警察は田宮とともに現場の再検証を行った後、田宮の自供だけで起訴したのだが、他にも田宮には不可解な行動があった。
田宮のある友人は、田宮が寝言で「悪かった、どうか勘弁してくれ」などと大きな声でうなりだし、何かに苦しんでいた様子だったことを証言した。
他にも「田宮が怯えた様子で、裸のままで押入れに隠れていたことがあった」と証言する人も出てきた。
それらのことから田宮の友人たちは「何か大きな罪を犯し、その罪悪感で苦しんでいるのではないか?」と噂していたという。
しかし、警察が田宮の犯行を裏付けるための物的証拠を集めようとしても、証拠品があがることはなかった。
その後も審理は続いたが、物的証拠はあがらなかった。
そして田宮は昭和2年(1927)秋頃から腎臓の病気を患い、病状が進み翌昭和3年(1928)1月に獄内で死亡した。
田宮の担当をしていた弁護士によると、田宮はこう語っていたという。
「いったん自白をしてしまったが、公判にいけば覆すつもりでいた。真犯人は他にいる。親戚や友人には十分合わせる顔がある」
つまり田宮は金貸し業という仕事柄、たしかに悩みは多く、いくつか罪も抱えていたのかもしれないが、この事件の犯人ではなかったのだ。
しかしなぜ田宮は、虚偽の「自白」をしたのだろうか?これについては後述する。
醤油屋一家殺人事件
それから半年以上経った8月、東京の千住町で醤油小売商・山田角三郎(50)と妻・まつ(43)の2人の絞殺死体が押入れから発見される事件が起きた。
雇われていた渡邊嘉一郎(16)がいなくなっていたため、警察は渡邊が夫婦を殺害したと疑った。
しかしその後、荒川放水路で行李(※籠の一種)に入れられた40~50代男性の腐乱死体が発見された。
調べると、なんとその行李に入れられた遺体が醤油小売商・山田角三郎(50)で、押入れから発見された遺体が雇われていた渡邊嘉一郎(16)であったことが判明した。
警察は「遺体の腐敗が激しく、親族でも間違えるほどだった」と説明したが、50歳と16歳の遺体を間違えたことで、世間からは非難の声が上がった。
こうした遺体の間違えなども含め、3人が殺害されたこの事件は大ニュースとなった。
犯人の動機は、山田が貸金業もしていたため、金に絡んだことだと考えられた。
警察が山田の周辺から情報を集めると、自動車運転手・五味鉄雄(37)という1人の債務者の名が浮かび上がった。
五味は以前、山田が貸していた家に住んでいたが、家賃をためこんだまま別の場所に移っていた。警察は多額の借金がある五味を事件と深い関係があるとして捜査を開始した。
五味は酒飲みのうえ乱暴な人物で、生活は非常に苦しかったという。
しかも、大岡山事件の被害者・清水徹三の姉が五味の妻であったことから、当時五味は参考人として取り調べを受けていた。しかし、何も証拠が見つからず進展していなかったという。
2人の犯人
五味は取り調べで、犯行のあった19日は運転手仲間の家に泊まっていたと話した。しかし、警察がその運転手仲間から話を聞くと、「五味から泊まっていたことにしてくれと頼まれた」と明かした。
五味は言い逃れ出来なくなり、醤油屋一家を殺したことをついに認めたのだった。
五味は山田から金を返すように催促されていたが、少し前に失業しており金に困っており、同じく金に困っていた仲間の田中藤太(40)を誘い、山田から金を奪うことを計画したという。
19日午後、五味は山田に「金を返す」と嘘をつき、山田を田中の家に呼んだ。
そして山田が田中と話している時に、五味が後ろから山田の首を絞め、田中が口をふさいで殺害したという。
その後2人は山田の家に行き、まつと渡邊を絞殺して押入れに放り込んだ。そして2人は21日深夜に山田の遺体を行李に詰め、舟に乗せて川に捨てたのだった。
真犯人の自白
五味と田中は市ヶ谷刑務所に収容され、9月中頃に2人の身柄が検事局に送られることになった。
そして余罪の取り調べをしている時に、いきなり五味は「大岡山事件を起こしたのも自分たちである」と自白した。
その後、歌子の家から盗まれた指輪などが2人の家から見つかり、大岡山事件も追起訴された。
昭和6年(1931)3月、2つの事件を合わせた初公判が開かれた。
五味は「2つの事件とも1人でやるつもりで、田中に手伝わせるつもりはなかった」と、田中をかばうような態度だったという。
その後の公判のやりとりでも、五味は「大岡山事件で妻の肉親を殺したことは、妻に申し訳なく思っている」などと述べた。
しかし
「人を殺したことには責任を感じていない」
「人の生死は絶対のもので、殺された人は自分でなくても誰かに殺される運命にあった」
「人殺しは私の終生の仕事で、私は人を殺すために生まれてきたと考えている」
などと、自身の殺人哲学を平然と語ったという。
五味は幼い頃に母を失い、生活は常に貧しかった。20代の頃にバスの運転手になり、それから運輸会社で働いたりトラックの運転手をしたりした。五味はバスの運転手をしていた時、給料の値上げを求めてストライキを起こしたが、その後会社を解雇された。
五味はそんな世の中への不満を募らせながらも、次第にそれもすべて自分の運命として受け入れ、たどるべき道をたどり今日まで生きてきたという。
田宮頼太郎の謎
その後2人に死刑が求刑され、昭和8年(1933)3月、2人の死刑が執行された。
これにより2つの殺人事件に幕がおりたが、どうにもすっきりしない部分が残っている。
それは田宮頼太郎の謎である。なぜ田宮は犯人でないにもかかわらず、あっさりと「自白」をしたのだろうか?
当時の新聞には、不可解な行動もあった田宮についてある疑惑が載せられた。
それは田宮が、大正11年に大崎町(現・品川区)桐ヶ谷で、洋品店の一家6人が斧のような凶器で殺害された事件の犯人だったのではないか、という疑惑である。
この事件の犯人は捕まっておらず、迷宮入りしていた。
当時の田宮の不可解な行動の中には「桐ヶ谷の事件の被害者6人をまつったお地蔵様に何度も祈っていた」という事実もあったという。さらに田宮は現場付近に土地勘があった。
つまり田宮は、桐ヶ谷で凄惨な事件を起こした後、その罪悪感に苛まれたが自首することもできずに苦しんでいた。そんな時に、大岡山事件の犯人として疑われたことを利用し自白することで、桐ヶ谷の事件の罪悪感から逃れようとしていたのではないか?という説である。
真実は不明だが、検事の間でも「田宮は何かしら大きな事件の犯人だったに違いない」と語り継がれたという。
参考文献 : 小泉輝三郎 「昭和犯罪史正談」 大学書房 1956年
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