昭和28年(1953年)7月27日夜7時半頃、東京新橋のバー・メッカで起きたある事件が戦後日本を震撼させた。
その夜、酒を楽しむ客の肩に赤い液体が滴り落ちてきた。それが血であると気づいた客たちが騒ぎ始め、現場は一気に混乱状態となった。
警察が駆けつけて捜査を開始すると、天井裏から40歳前後のサラリーマン風の男性の死体が発見された。その男性は頭を毛布で包まれ、顔と頭は鈍器でめった打ちにされ、首は電気コードで絞められていた。
事件の発覚と捜査の進展
バー・メッカは3階建ての建物の2階に位置し、遺体は2階と3階の間の天井裏に放り込まれていた。またその日の午後4時頃、バーの住み込みボーイである近藤清(20歳)が店の人に「外出してくる」と告げたまま行方をくらませており、警察は近藤を疑い行方を追った。
被害者の身元もすぐに判明し、横浜市に住む証券ブローカー・博多周(40歳)であることがわかった。博多は事件当日、約40万円(現在の約250万円)を所持していたが、現場には金が残されていなかった。
警察が近藤の行方を追う中、新たに正田昭(24歳)という男が浮かび上がった。正田は時折店に姿を見せる客であり、事件当日の午後1時頃にも店にいたことがわかっていた。その後、正田は姿を消し、近藤も店に顔を出した後行方がわからなくなった。
正田は証券会社に勤めていた過去があり、被害者とはその時の取引の関係で面識があったことも判明した。
共犯者の逮捕と供述
7月29日、刑事が正田の住所に張り込んでいると、一人の怪しい男がうろついているのを見つけた。
刑事が呼び止めると、その男は「いろいろ迷惑をかけました。事情はお話しします」と頭を下げたという。
男は相川貞次郎(22歳)といい、正田とは麻雀仲間であった。相川は正田と近藤から強盗殺人の計画を聞かされ、事件前日に店で打ち合わせをしていたが、当日になって怖くなり計画に加わらなかったと供述した。事件後は正田たちから口止め料をもらったようだが、それ以降の行方は知らなかった。
8月3日には静岡県で近藤が逮捕された。
近藤は取り調べで、正田とは事件の1ヶ月前から顔見知りになり、正田から今回の計画を持ちかけられたことを話した。近藤は「ただ金が欲しかった。金以外のことは考えてもいなかった」と供述している。
近藤は東京に憧れて昨年関西から上京し、住み込みのボーイを始めたが、女遊びや麻雀にのめり込むようになり生活は乱れていた。
バー・メッカに移り働き始めた頃には、既に金に困っていたという。
事件の詳細と「アプレ・ゲール犯罪」
事件当日の詳細は次のようであった。
正午、正田が被害者を店に連れてきて嘘の商談を始めた。正田はトイレに行くふりをして被害者の背後に回り、電気コードで首を絞めた。近藤は角棒で被害者の頭をめった打ちにして殺害し、正田は被害者の所持金と腕時計を奪った。
その現金の中から3万円(現在の約19万円)を近藤に渡した。そして二人で遺体を隠した後、現場で別れた。しかし、それから新聞で被害者の所持金が40万円もあったことを知った近藤は、正田に対して強い憤りを感じたという。
当時、彼らが起こしたこのような犯罪は「アプレ・ゲール(戦後派)犯罪」と呼ばれた。
アプレ・ゲールの本来の意味は第一次世界大戦後のフランスの文芸運動を指す言葉であったが、日本では太平洋戦争後の世代とその文化を指す流行語となり、戦前派の価値観とは全く異なる行動をする戦後の若者たちを指した。アプレ犯罪はそれまでの倫理観を無視し、滅茶苦茶で無責任で幼稚な犯罪として世間を騒然とさせた。
新聞には「人を殺して金を奪う犯罪が、少しの思いつきで成立してしまうらしい」というものや「悪い方の典型的なアプレ青年の行動に、恐怖を感じる」などの意見が載った。
近年においても度々価値観の異なる若者の事件や犯罪が取り沙汰されるが、これはいつの時代でも変わらぬようだ。
手配写真を欲しがる女性が続出、主犯・正田の逮捕
その後も正田はなかなか見つからなかった。そこで警察は正田の写真を印刷した手配ビラを全国に配布し捜査を進めた。
しかし、手配写真を見た女性たちの中には「その写真をちょうだいよ、代表的な美男子だわ」「こんな男がいたらかくまってあげるわ」などと言う者も多く、刑事を困らせたという。
それでも手配写真の効果はあり、正田に似た男の情報が続々と入ってきた。
事件発生から70日余り経った10月12日、ついに正田は京都で逮捕された。
正田は自身を京大生と偽りアパートに下宿していたが、アパートの管理人は正田の金遣いの荒さを不審に思い、新聞に載っていた正田の写真を見て警察に届け出たのだった。逮捕時、正田は奪った金を使い果たして無一文だったという。
逮捕された当初の正田は陽気であり、当初は「事件の主犯は近藤で、自分は後始末をしただけだ」と話していた。
しかし、取り調べが進むにつれ次第に自供を始めた。
正田は昭和4年(1929年)大阪で生まれた。父親は弁護士であったが正田が生後5ヶ月の時に他界し、母親によって育てられた。母は立派な女性だったが金に対する執着が強かったという。長兄がいたが母や弟妹に暴力を振るうようになり、正田は家庭内での不信感を強めていった。
その後、旧制高等学校の入試に失敗し、慶応大学経済学部予科に入学したが、交際していた女性との関係にショックを受け、次第に精神的に不安定になった。
大学卒業後、正田は証券会社に就職したが、多額の金を浪費し生活が乱れ、やがて会社を解雇された。
その後、交際していた女性の叔母から預かっていた株券や現金を使い果たし、返済に困った正田は、今回の事件を起こすに至ったのである。
正田の心を一変させた神父との出会いとその後
昭和29年(1954年)、フランス人のカンドウ神父との出会いが正田の心を一変させた。カンドウ神父は正田に信頼や愛を教えるというよりも、信頼や愛を投げかけたのだ。正田は神父への崇拝の念が絶大で、精神的に救われたという。
その後、正田はカトリックの洗礼を受け、熱心に宗教書を学び、次第に自身の犯行を後悔し反省するようになった。
昭和31年(1956年)12月、一審判決で正田は死刑、近藤は懲役10年、相川は懲役5年が言い渡された。
東京拘置所の精神科医官で作家の小木貞孝(作家名・加賀乙彦)は、死刑判決後の正田と面会している。
正田は「死刑の求刑を聞いた時はがっかりしましたが、母が慰めてくれたこともあり、すぐに立ち直りました」と話し、特に変わった様子はなかったという。
その後、昭和35年(1960年)に控訴棄却、昭和38年(1963年)に上告棄却され死刑が確定した。
正田は獄中で日記などをつけ、自身の気持ちを文筆で表すことを試みた。
そして昭和38年(1963年)4月、正田が書いた小説『サハラの水』が文芸雑誌『群像』の新人文学賞の候補になった。賞は逃したが、この作品は極限状態にある死刑囚が生み出した創造的文章として注目された。
最後の日々と遺したもの
昭和44年(1969年)12月、正田の死刑が執行された。正田と手紙のやり取りをしていた小木貞孝は、「正田から信仰や犯罪についての意見を学び、死刑囚も一人の人間であることを示してくれた存在であった」と述べている。
メッカ殺人事件は、単なる金欲しさの残忍な強盗殺人として扱われたが、正田の心の内にはもっと深い闇があった。幼少期の家庭環境や戦中戦後の社会の変動、大人たちへの不信感と憎悪が正田の心を蝕んでいた。
この事件は、単なる金欲しさだけではなく、戦後の日本社会の闇と若者たちの絶望を象徴しているといえるだろう。
参考文献
加賀乙彦 「死刑囚の記録」 中公新書 1980
加太こうじ 「昭和事件史」 一声社 1985
別冊一億人の昭和史 「昭和史事典」 毎日新聞社 1980
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