ハワイ、オアフ島沖合いの海底に静かに眠る潜水艦がある。
それは、水深600mの場所で発見されるのを70年以上も待ち続けていた。
建造当時、世界最大の大きさを誇っていた潜水艦、その名は「伊400」。
太平洋戦争の最中、日本海軍は戦艦「大和」と並び、巨大兵器を開発した。それが伊400である。伊400は、それまでの潜水艦の概念を大きく覆す構想のもとに作られた。
伊四百 世界初の潜水空母
オアフ島は戦前から米海軍・太平洋艦隊の基地が置かれていた。そこに終戦の翌年、1946年1月に一隻の潜水艦が日本から到着する。
日本海軍の潜水艦「伊400」である。日本の敗戦により、アメリカ軍が接収、技術調査のためにハワイに運ばれてきたものだった。
【※伊400]】
入念な調査を行ったアメリカ軍は驚愕する。当時、大西洋で活躍したドイツの潜水艦「Uボート」が全長67.1mだったのに対し、伊400は全長122m、およそ2倍であった。これは原子力潜水艦が登場するまで世界一の大きさ誇るサイズだ。なかでもアメリカを驚かせたのは、船体の上に取り付けられた「格納筒」である。ここには折りたたみ式の攻撃機が3機搭載されていた。
伊400は、潜水艦でありながら空から敵を奇襲できる「潜水空母」だったのだ。
その後、調査を終えた伊400はアメリカ軍によって破壊、沈没させられた。アメリカはこの潜水艦の情報を他国、特にソ連に渡したくなかったからである。
長き眠りから覚めた伊400
こうして、人々の記憶のなかからその存在が消えていた2013年、伊400が発見されたというニュースが世界を駆け巡った。
10年にわたり幻の潜水艦を探し続けてきたハワイ大学の調査チームは、光も届かない600mの海底で伊400を発見したのである。
発見された船体には、14cm砲も確認された。砲身長6mあまりの強力な大砲で、小型の艦なら一発で撃沈できるほどの威力がある。さらに、直径70cmほどのハッチも確認できる状態で残っていた。このことから、船体は巨大でも出入り用ハッチのサイズは他の潜水艦と同じであることが分かる。艦首は破壊され、内部がむき出しになっていたが、8本の魚雷発射管は残っており、通常の潜水艦より2本多いことも確認できた。
【※アメリカ本土に回航されて技術調査中の伊400型潜水艦。伊400は軽巡洋艦なみの14cm主砲を後部甲板に装備していた】
こうした調査から、伊400の本来の姿が分かってきた。
船体の上にある格納筒だけで、そのサイズは長さ約30mもあり、後方甲板では14cm砲が睨みをきかせる。まさに世界最大の潜水空母にふさわしい勇姿であった。
山本五十六の秘策
1941年(昭和16年)12月8日、日本による真珠湾攻撃で太平洋戦争の火蓋が切って落とされる。
この作戦を指揮した連合艦隊司令官「山本五十六(やまもといそろく)」は、大戦の早期終結を図るため、アメリカ本土への直接攻撃を計画していた。目標はアメリカ東海岸、ニューヨークやワシントンといった大都市に潜水艦で接近し、航空機による奇襲でアメリカの戦意をくじくことが狙いである。
山本がこの作戦を効果的と考えたのには根拠があった。真珠湾攻撃の2ヵ月後、日本海軍の潜水艦がアメリカ西海岸を攻撃し、被害こそ少なかったものの、本土への直接攻撃を初めて経験したアメリカ国民がパニックに陥ったのである。このことは、後日「未確認飛行物体」を日本軍の攻撃と勘違いしたアメリカ軍による「ロサンゼルスの戦い」にまで影響を与えた。
たった1隻の潜水艦がアメリカ全土を混乱させたことに自信を持った山本は、「伊400」の建造計画を立てる。
特型潜水艦・伊400
海軍艦艇の設計責任者が戦後にまとめた「潜水艦建造計画の大要」という史料によれば、伊400はそれまでの潜水艦と規模が違ったため「特型潜水艦」と記されていた。要求航続距離は33,000海里とあるが、これは燃料の補給無しに地球を一周半できることを意味している。
日本を出航した伊400は、南米大陸最南端を回ってアメリカ東海岸で作戦を実行し、同じコースで帰国しないといけないからだ。その往復分の燃料を積むために巨大な船体が必要となった。
そして、伊400が巨大化したもうひとつの理由も明記されていた。
「攻撃機2機ヲ搭載。極メテ大ナル水密格納筒ヲ設置スルノ要アリ」
【※伊400型潜水艦の飛行機格納筒】
この格納筒は高さ約4m、長さが30mもあり、これだけで小型潜水艦と同じサイズである。
そして、潜水艦でありながら空母や戦艦と同じようにカタパルトを装備することになる。これこそ、日本独自の技術であった。
日本の独自の技術が解決した難問
1943年(昭和18年)1月、広島県呉市にて伊400の建造が始まった。
呉には戦前「東洋一」といわれた海軍工廠があり、戦艦大和など多くの軍艦がここで建造されていた。そして、伊400も大和と同じドックで建造されたのである。どちらも「最高機密」であったため、外部から見えないように巨大な屋根で覆われた特別なドックが使用された。
しかし、伊400に限っては、建造よりも設計こそ最大の難関であった。
巨大な格納筒を通常の船体に載せるとバランスが崩れてしまうため、最終的に2つの船体をメガネ型に組み合わせ、その中央部に格納筒を配置することでこれを克服。外殻によって一本の筒状に仕上げたのだ。そして、収納する攻撃機も新規に開発された。現在、アメリカのスミソニアン博物館に実物が展示されている「晴嵐(せいらん)」である。
【※伊400に搭載された攻撃機、M6A1 晴嵐(せいらん)】
晴嵐は、魚雷と対地爆弾を装備できるように両翼で12mの幅があったが、これを格納筒に収納するのが一番の課題だった。
伊400の格納筒は、艦載機のプロペラの直径に合わせて4mとなっていたため、どのように翼を折りたたむのかが技術的な壁となる。そこで、晴嵐ではまず翼そのものを90度回転させ、さらに後方に折りたたむことで格納を実現させた。大きなものをコンパクトにするという日本人が得意とする技術が解決へと導いたのだ
更なる難題を乗り越えて
こうして伊400の建造が軌道に乗ってきた1942年(昭和17年)6月、日本海軍はミッドウェー海戦で大敗、翌年には伊400の発案者である山本五十六がソロモン諸島で戦死するなど戦況は日本の不利に変わりつつあった。
このことは伊400の建造にも影響を及ぼすことになる。搭載機の数を2機から3機に増やすことになったのだ。また、鉄などの資材不足から海軍内では、伊400のような大型潜水艦の建造を疑問視する声も上がり、建造予定数が大幅に縮小されることとなる。それを補うために考え出されたのが、搭載機の増加であった。
まさに苦肉の策である。
そこで、後方に配置されていた砲座や弾薬を取り払い、どうにか格納筒を10m延長することに成功した。さらに晴嵐の垂直尾翼も折り曲げることで、後方の晴嵐をギリギリまで前進させ、前方のハッチにもくぼみを付けることで、3機の晴嵐が寸分の狂いもなく格納筒に収まるようになる。
1944年(昭和19年)12月、建造開始から2年を経て巨大潜水艦「伊400」が完成したのであった。
最後に
こうして世界初の攻撃空母は完成したのだが、すでに戦況は大きく変わっていた。
伊400に配属された総勢195名のうち、多くが10代・20代の若者であり、すでにその多くが戦死していたベテラン乗組員に代わり、彼らの手に伊400が託されたのである。
しかし、彼らを待っていたのは戦況の悪化に伴う激動の任務だった。
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