航空戦艦と呼ばれた軍艦
「伊勢」と「日向」は大日本帝国海軍によって建造された伊勢型戦艦の1番艦と2番艦にあたる同型艦です。
元々は当時のトレンドであった大艦巨砲主義思想の下、前級の扶桑型戦艦の後継戦艦として建造された超弩級戦艦でした。
しかし後に太平洋戦争が勃発し、戦艦に対する航空攻撃の有効性が明らかになった事や、続くミッドウェー海戦において、主力の大型航空母艦4隻を同時に喪失する事態が生じた事などから、世界的にも稀な「航空戦艦」として
の改装を施された軍艦となりました。
この稀有な「航空戦艦」について調べて見ました。
建造時と戦艦としての改装
「伊勢」と「日向」の両艦は大正6年(1917年)から大正7年(1918年)にかけて完成された戦艦でした。
当初の全長は208m、排水量約32,000トン、主砲36センチ2連装砲6基12門、速度23ノットという艦容の超弩級戦艦でした。
奇しくもその完成は第一次世界大戦の末期にあたり、この大戦の反動として世界的な軍縮の空気が生まれたことでこの両艦以後の戦艦建造は長門・陸奥までで一旦中断される事となりました。
「伊勢」と「日向」は就役後も複数回の改装を施されました。
具体的には全長が8m延長されて216mとなり、排水量も約40,000トンと約8,000トンも増加しました。
また機関部分も換装されてそれまでの約45,000馬力が一気に80,000馬力へと強化され、これに伴い速度も2ノット向上した25ノットとなりました。
馬力の向上のわりに速度が上がっていないのは排水量も25%ほど増えたことで艦自体の重量が増えたことが影響しています。
速度の遅さから待機
昭和16年(1941年)12月、日本海軍はハワイの真珠湾を航空母艦を中心とする機動部隊による奇襲に成功しました。
同時にマレー沖海戦でも、ギリスの戦艦を航空機の攻撃で撃沈する大戦果を挙げます。
ここにおいて作戦行動中の戦艦に対しても航空攻撃が有効である事が明らかとなり、海戦の中心は機動部隊へと移っていきました。
その中で機動部隊の航空母艦は30ノットに近い高速だったことから、これに随伴可能な戦艦は日本海軍では金剛型のみとなり、伊勢と日向は作戦に用いられることのない状態が続くことになりました。
ミッドウェー海戦がきっかけ
太平洋戦争開戦の翌昭和17年(1942年)6月、日本海軍はミッドウェー海戦で投入した主力の航空母艦4隻と重巡洋艦1隻、約280機の艦載機と熟練搭乗員を一気に失う致命的な敗北を喫しました。
この当時の日本海軍が保有していた大型航空母艦は全体で8隻であり、その半分を失ったことから航空戦力を増加させる必要に迫られました。
この当時は大型空母1隻を新造するには約2年の期間を擁したことから、既存の軍艦を航空母艦に改装することが決定され、その候補となったのが開戦から出番のなかった「伊勢」と「日向」でした。
しかし、通常の航空母艦の全通甲板へと改装することは、新造するよりも手間暇が掛かることから艦後方にあった2基4門の主砲塔を撤去して短い飛行甲板を設け、搭載機は2機据え付けられたカタパルトから射出するレイアウトを採
用した「航空戦艦」として1943年11月に改装が終了しました。
最期は海上砲台
こうして航空戦艦となった「伊勢」と「日向」はそれぞれ22基の艦載機を搭載できる仕様となっていましたが、時既に遅く戦局は誰の目にも明らかで、日本の敗北は時間の問題という状況になっていました。
更に搭載する艦載機すら無くなっていた日本海軍は「伊勢」と「日向」を輸送任務に使用することしか出来ませんでした。
そうした中迎えた昭和19年(1944年)10月、遂に「伊勢」と「日向」は他の戦艦らと共にフィリピン沖へと向かいました。
「捷号作戦」(しょうごうさくせん)と呼ばれた日本海軍最後の艦隊決戦を企図した作戦でした。
「伊勢」と「日向」はアメリカ軍の攻撃を躱し、囮の部隊しての任務を全うしましたが、制空権を押さえたアメリカ軍の前に日本海軍は敢無く、半数以上の艦艇を撃沈され以後出撃することはありませんでした。
その後「伊勢」と「日向」は呉軍港の海上砲台となっていましたが、1945年(昭和20年)8月にアメリカ軍の空襲によりその地に着底して軍艦としての最期を迎えました。
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