のっぺらぼうの木像たち
宮崎県西都市の歴史民俗資料館には、一風変わった木彫りの像が安置されている。
高さ185センチ。袈裟をまとった僧のように見えるが、顔や衣の表面が滑らかに削られており、風貌は判然としない。今でこそ貴重な民藝資料として保管されているこの木像、かつては地元民がいつでも触れられる場所に置かれていた。表面が削られているのは、病気に罹った時、薬代わりとして服用していたからだという。
一方、宮崎から遠く離れた新潟県長岡市にも、同じく表面がすり減った木の仏像が三十六体伝わっている。中には光背が大きく欠けたり、摩耗しているものもある。こちらの木像は、子供たちの遊び相手になって野山を駆け巡っていたために、このような姿になったのだという。
仏像といえば、数段高い所から人々を見下ろす崇高な存在だが、前述の木像たちの扱われようは、そんな仏像のイメージとは程遠い。
庶民の暮らしに溶け込んだこれらの木像を作ったのは、江戸中期に生きた「木喰」(もくじき)という一人の造仏聖である。
木喰若かりし頃
木喰の前半生については、彼自らが著した「四国堂心願鏡」から窺い知れる。
享保三年(1718年)に甲斐国丸畑ヶ村(今の山梨県南巨摩郡身延町)に生まれた木喰は、十四歳になると故郷を後にし、江戸へ出る。そこで様々な奉公に励むものの、どれも長続きせず、苦悩の多い少年時代を過ごしたようだ。
二十二歳になっても定職に就けず、失業中の神頼みとして相模大山石尊に詣でたのが、大きな転機となった。前述の「四国堂心願鏡」にはこうある。
「サガミノ国石尊ヘ参籠イタシ」「真言宗師ニテ、因縁ニアツカリ、ソノ所ニヲイテ師弟子ノケイヤクヲイタシ」
つまり、相模大山石尊に詣でた際、真言宗の僧に出会い、そこで出家しているのだ。その後、各所の寺の住職を務めるが、四十五歳になると日本各地を巡る廻国の修行に出立する。
庶民を癒す仏を造る
日本随所にある木喰作品を世に紹介したのは、大正期に活躍した民藝運動の父・柳宗悦(やなぎむねよし)である。
柳が、木喰芸術を「微笑仏」と名付けたように、その作品の多くは親しみやすい微笑みを湛えている。しかし、木喰が木像を彫り始めた六十歳頃の初期作品は、瞑想をしているような陰鬱な表情が多く、木喰仏独自の微笑が確立されたのは、八十歳を超えた頃と考えられている。彼が造仏聖としての道を歩み始めたのは、廻国の途上、北海道で円空仏を見たことがきっかけだったと言われているが、同時期に北海道において流行した天然痘によって亡くなった子ども達を弔い、やり場のない苦しみを抱える民を癒すため、子安像を造ったことが本格的な創作に繋がったという見方もある。
苦しみを乗り越えて生まれた微笑仏
木喰が九州長崎で詠んだ歌集「青表紙歌集」には、こんな歌が遺されている。
まるまると まるめまるめよ わが心 まん丸丸く 丸くまん丸
木喰の人生には多くの苦難があった。廻国途上には数々の裏切りに遭っている。
彼には、白道、丹海など数人の弟子がいたが、天明六年の記録に「弟子二人ニグル」という箇所があり、旅の最中、何らかの理由で弟子が離反したことが知れる。
また、故郷の丸畑に帰った際には、村人から四国堂をつくるよう願われ、喜び勇んで取り組んだものの、次第に協力者が減ってしまったという経験もしているようだ。
人の世に生きる辛苦を噛み締めながら、木喰はわが心を静かに丸めていったのだろう。
木喰聖いずこへ
生涯において、二千体の木像を造ることを発願した木喰。彼の風貌に関する記録が残っている。木喰本人に接したという清源寺十三世佛海の言だ。
「鬚髪雪の如くシロし」「実に僧に似て僧に非ず。俗に似て俗に非ず」
木喰の背は当時の日本人には珍しく、六尺(180センチ)もあったと言われており、髭も頭髪も白い巨躯の老人は、僧とも俗とも表現できない、まさに仙人のように見えたのではないだろうか。
最後に、木喰本人の言として神秘的な話も紹介しておこう。
文化三年十二月の或る晩、木喰は不思議な夢を見た。「阿弥陀三尊から、六百歳の延寿と神通光明明満仙人という名を与えられた」というのだ。現存する木喰最後の作品は、阿弥陀如来というが、その因縁に見えぬ力の思し召しを感じる。
その後、文化七年に九十三歳で入寂したとされるが、遺されたのは紙位牌のみで、どこでどのようにして亡くなったかはわかっていない。あるいは、六百歳の延寿によって、いまだどこかの地で破顔の木像を彫り続けているかもしれない。
面白くない