幕末明治

【あの風刺画を描いた画家】ジョルジュ・ビゴー 「日本を愛しすぎて日本から追われる」

ジョルジュ・ビゴー

画像:ジョルジュ・ビゴーの「魚釣り遊び」(Une partie de pêche)。『トバエ』1号(1887.2.15) public domain

皆さんは上の絵に見覚えがないだろうか。

この絵は朝鮮半島を狙う日本と清(中国)、そしてそれを横取りしようとするロシアを風刺して描かれたものだが、学生時代に歴史の教科書で見かけた人は少なくないはずだ。

この絵が描かれた7年後の1894年には、実際に朝鮮半島を巡って日清戦争が始まり、その10年後には清との戦いに勝利した日本にロシアが宣戦布告して、日露戦争が勃発した。

未来を暗示するようなこの風刺画を描いたのは、ジョルジュ・ビゴーというフランス人画家だった。

日本を皮肉る絵を描いたことから日本嫌いの人物と誤解されることもあるビゴーだが、彼は日本嫌いどころか大の親日家で、生粋の「古き良き日本オタク」とも言える人物だったことをご存じだろうか。

今回は、日本好きが過ぎた故に日本政府に嫌われてしまった画家、ジョルジュ・ビゴーの生涯に触れていきたい。

生誕から来日まで

ジョルジュ・ビゴー

画像:パリ国立高等美術学校(エコール・デ・ボザール) wiki c Hermann Wendler

ビゴーことジョルジュ・フェルディナン・ビゴーは、1860年4月7日、官吏の父と画家の母のもとにパリで生まれた。

ビゴーは母の影響で幼い頃から絵を描き始めるが、ビゴーが8歳の時に父が亡くなり、母と4歳下の妹の3人家族となってしまった。

12歳になる年に、母の勧めでパリの名門美術学校エコール・デ・ボザールに入学して絵を学んだが、母と家計を助けるために16歳になる年には退学して、芸術サロンに出入りしながら挿絵の仕事を受けるようになる。

ビゴーが日本に興味を抱くようになったのは、サロンで出会った日本美術愛好家の画家たちや、挿絵の仕事を通じて出会った作家たちの影響があったと言われる。

1878年、ビゴーはパリ万博で日本の浮世絵と出会って感銘を受け、この頃に銅版画のテクニックを学び、1880年には美術研究家ルイ・ゴンスの著作『日本美術』の挿絵の一部を担当する。

1881年になると、エミール・ゾラ作の小説『ナナ』の単行本刊行に寄せて、17枚の挿絵を寄稿した。

才能あふれるビゴーは20代前半にして既にフランスでは名の知れた挿絵画家となっていたが、日本への憧れを抑えることができず、在日フランス人で陸軍大学校の教官を務めていたプロスペール・フークとのコネを得て、1882年1月に念願の来日を果たした。

憧れの日本に住み始める

ジョルジュ・ビゴー

画像:ジョルジュ・ビゴー(1882年4月7日:来日後初の誕生日)/横浜で撮影 public domain

ビゴーが来日した当時は写真の技術がまだ不安定で、陸軍士官学校では記録のために写生の授業を行っていた。

ビゴーはフークの後押しと当時の陸軍大臣だった大山巌の紹介を得て、お雇い外国人の絵画講師として、1882年10月から1884年10月までの2年間働いた。

安定した立場と報酬を得ることできたビゴーは、この2年間の間に日本の庶民の生活を描いた画集を3冊自費出版する。講師の契約が切れてからは在日外国人向けに絵を描きながら、日本に住み続けることになる。

ビゴーは浮世絵で見たような生活様式がまだ残っていた当時の日本人の暮らしや風習に強い関心を抱き、日本の世相を描いた版画やスケッチを多く残した。それらの絵は当時の日本人が絵にするまでもないと思っていた物事も描かれており、今では当時の日本の情景を知ることができる貴重な資料となっている。

1885年になると、ビゴーは『改進新聞』の専属画工となり、「仏国の江戸ッ子なりと自称せり」と記事で紹介されている。

また同時期に、ビゴーは中江兆民が主宰した仏学塾でフランス語講師を務めて中江の門弟とも交流を持ち、自由民権運動にも間近で接した。

1886年には一時フランスへの帰国を検討するも、フランスやイギリスの新聞社から日本を題材とした報道画の依頼を受けるようになったため、さらに滞在を延長することとなり、日本の雑誌や新聞にも漫画や挿絵の寄稿を行った。

後にビゴーの描く漫画は「当時4コマ漫画ばかりだった日本の漫画界に、ヨーロッパ風の7~10コマに渡る長尺コマ漫画のスタイルをもたらした」と評されている。

風刺漫画雑誌『トバエ』創刊

ジョルジュ・ビゴー

画像:ビゴーが創刊した漫画雑誌『トバエ』の表紙。ピエロはビゴー自身がモデル public domain

1887年になると、ビゴーは外国人居留地に住むフランス人向けに、風刺漫画雑誌『トバエ』を創刊し、日本の政治を皮肉るような風刺漫画を多数掲載した。『トバエ』とは「鳥羽絵(鳥獣戯画)」から着想を得たタイトルだった。

日本の伝統的な生活様式を愛していたビゴーは、西洋の文化を必死に取り入れようとする日本の国策に滑稽さを感じていた。

江戸幕府が欧米諸国と結んだ不平等条約の改正を急いでいたが、ビゴーは「条約改正には時期尚早である」という立場を取り、中江兆民やその門弟の協力を得て『トバエ』に日本語のキャプションを付けて日本政府を批判した。

ビゴーは当時、外国人居留地に住む外国人相手に雑誌を発行し、雑誌の発行所も治外法権のある居留地であったが、ビゴー自身は日本の庶民の生活を知るために一般の日本人が住む地区で日本人と同じように暮らしていた。

仏学塾で講師をしている間は麹町区二番町に住み、1887年から1890年までは向島に、1890年からはビゴーが来日以来懇意にしていた士族の佐野清の居宅があった市谷本村町近くの、牛込区市谷仲之町に住んでいた。

ビゴーが暮らした向島は当時外国人が住むにはかなり辺鄙な場所であったが、これはビゴーが『トバエ』で政府批判を行ったため警察や政治活動家に目をつけられており、その監視から逃れるためという事情があった。

ビゴーは外国紙通信員として、1888年に起きた磐梯山噴火や1891年に起きた濃尾地震、1896年に起きた三陸大津波の取材も行っている。

報道における写真の力を知ったビゴーは自ら写真の技術を学び、写真を基にしたスケッチも行った。

日本人女性マスと結婚、日清戦争勃発

画像:黒田清輝の絵画を見る人々 public domain

『トバエ』は1889年で休刊となるが、その後もビゴーは風刺画を描き続けて雑誌も刊行し続けた。しかし大日本帝国憲法発布により自由民権運動が終息すると同時に、条約改正問題を除いて日本の政治に対する風刺画はほとんど描かなくなった。

1893年には関西の外国人居留地に自分の絵を売り込むため、東京を出て半年ほど京都に滞在した。その後は現在の千葉県稲毛区にアトリエを構えてそこに移住し、1899年に帰国するまで稲毛に住み続けることとなる。

1894年7月、ビゴーは34歳の時に士族・佐野清の三女であったマスという女性と結婚する。マスはビゴーより17歳年下の、切れ長の目元が美しい日本的な美女だった。

この時期にビゴーはフランスから帰ってきたばかりの日本人画家・黒田清輝と知り合い、画家として日本に永住するために懇意になろうとした。

画像:『湖畔』(1897年)黒田清輝 public domain

しかし、フランスの最新の流派を学んで帰国した黒田に対して、時代遅れの写実主義で育ってきたビゴーではまず考えが合わず、黒田とは大喧嘩の後に絶縁に至る。

1894年8月に勃発した日清戦争では、ビゴーはイギリスの新聞社の特派員として陸軍に従軍し、報道画を寄稿する。その翌年にはマサとの間に長男モーリスが誕生した。

日清戦争で日本が勝利を治めたことにより、アジアの中での日本の存在感は大幅に増した。ビゴーの風刺も日本を中心とする極東情勢が主な題材となっていく。

同時期、ロシアに対抗するイギリスは日本との接近を図り、不平等条約改正への流れが決定的なものとなる。

条約改正の流れはビゴーが日本で暮らしていく上での不安の種となった。
ビゴーの顧客は外国人居留地に住む外国人で、条約が改正されればその顧客たちが日本を離れてしまうことに加えて、治外法権が撤廃されれば今までのような自由な表現も難しくなってしまう。

さらにビゴーは日本の文化や暮らしを愛してはいたが、多くの居留外国人たちと同じように日本の司法や警察には不信感を抱いていたのだ。

長男を連れてフランスに帰国

画像:童話『シンデレラ』の一場面を描いたエピナール版画(作者不明) public domain

条約改正の発効1ヶ月前にあたる1899年6月、39歳になったビゴーはマスと離縁して、長男モーリスを連れてフランスに帰国した。

帰国後の1899年12月にはフランス人の女性と早々に再婚し、1900年にはパリ万博で「世界一周パノラマ館」の設計に携わったほか、本の挿絵や漫画、ポスターなどを描いて収入を得る大衆画家として暮らす。

1903年には、日本にいた時に住んでいた稲毛海岸を描いた油彩画がサロンに入選した。生涯唯一の入選作品であったこの作品は、写実主義のビゴーが初めて印象派の技法を取り入れた作品だった。

日露戦争が終わるまでは日本を題材とした絵を多く描いたが、それ以降は日本を描くことは少なくなり、1904年に発刊された『大仏の耳の中で』が、ビゴーにとって最後の日本を題材とした挿絵本となった。

1906年頃からは新聞や雑誌の挿絵を描くことをやめ、童話などのワンシーンを描くエピナール版画の下絵作家として活動した。その下絵の中にはわずかだが、日本で暮らしたビゴーならではの日本の物語や風俗を描いたものもあったという。

1925年には日仏ハーフでフランス在住の作家・山田キクが『マサコ』という日本を題材にした小説を刊行すると関心を示して、手元にあった本に1ページずつ挿絵を入れることを試みたりもした。

晩年のビゴーは、自宅の庭にわざわざ外国から取り寄せた竹を植え付けてささやかな日本風庭園を造り、その庭を眺めながら過ごしたという。

日本風の着物を着て暮らし、近所の住民から「日本人」と呼ばれたビゴーは、1927年に自宅の庭を散策している最中に脳卒中を起こして67歳でこの世を去った。

死後に再評価されたビゴーの風刺画

ジョルジュ・ビゴー

画像:ジョルジュ・ビゴー『東京に初めて出現した自動車』(1898年)public domain

現在では日本人の多くが知っているビゴーの風刺画だが、第二次世界大戦前の日本においてはビゴーの名はほとんど知られていなかった。

それは彼の作品やそれを掲載した雑誌が外国人向けだったことや、日本の画壇の中心人物であった黒田清輝と仲違いしてしまった影響が大きい。

しかし戦後、歴史学者の服部之総が主宰した近代史研究会のテキストでビゴーの風刺画が多数紹介されたことにより、日本国内で広く知られ、やがて社会科の教科書にもビゴーの風刺画が掲載されるようになった。

ビゴーが日本にいる間に描いた作品には、急速な西洋化にやっとのことでついていこうとする日本人の滑稽な姿や、実際に目にしたからこそ描けた日本の風俗がユニークに描かれている。

ビゴーが日本を題材にして描いた作品からは、皮肉だけではなく日本や日本人へのそこはかとない愛慕が感じられる。

時に反日と誤解されることがあるビゴーだが、彼は古き良き日本を愛する紛れもない親日家だったのである。

参考文献
清水勲 (著)『ビゴーが見た日本人
及川茂 (著)『フランスの浮世絵師ビゴー: ビゴーとエピナール版画

 

北森詩乃

北森詩乃

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