鎌倉時代

「元寇」の真実、台風で撃退は本当?

元寇

元寇 蒙古襲来絵詞前巻

日本は島国である。それによるメリットもデメリットもあったのだが、歴史的に見ると、「海外からの侵攻を受けにくい」という意味でのメリットを享受してきたといえるだろう。

海を超えて大規模な軍勢が日本を訪れて本格的な戦争となった著名な事例として、「元寇」がある。

「元寇」という歴史事件について、学校の歴史などで「台風によりモンゴル軍は撤退した」と理解している人も珍しくないが、本当にそうだったのだろうか。

この記事では、元寇におけるモンゴル側・日本側の動きと、台風との関係、そしてあまり語られることのない「対馬・壱岐の戦い」についても触れておこう。

なぜモンゴル(元)が攻めてきたのか?

モンゴルは、地理的には中国の北に位置する。歴史的には周知のとおり、日本は古くから中国への朝貢という形をとって大陸との関係を築いてきた。

しかし、当時の中国の王朝「宋(南宋)」は、モンゴルによって制圧されてしまう。

モンゴルは南宋との戦争中に、日本に対し、新たな中国の覇者となる自分たちに対して朝貢するように、という旨の「大蒙古国皇帝奉書」を送りつけた。

元寇

大蒙古國皇帝奉書

実はモンゴルからの使者は、第一次日本侵攻である「文永の役」までに6回にも及んだが、日本側から満足な回答を得ることはなかった。

当時のモンゴルは領土・勢力圏を拡大する方針であったため、日本もその対象となっていたことは想像に難くない。

以降、モンゴルは国号を「」と定め、本格的に日本侵攻の計画を行うこととなった。

重要な初戦「対馬・壱岐の戦い」

元寇

イメージ画像

現代でもそうだが、軍隊が侵攻するときには、必ず拠点を作りながら進む。徒歩の場合はもとより、船旅においては補給や休息がより一層必要だからである。

当時の造船技術や航海技術で、朝鮮半島から日本を目指すのはまさしく「命がけ」の船旅であった。このようなことから、日本が最初に元の大軍と接触したのは、朝鮮半島と九州との最短距離を結ぶ海上ルートの中間地点にある「対馬」および「壱岐」であった。

ここで、日本側と元との初戦が行われることになる。このとき、迎撃を行ったのが対馬守護代である「宗資国(そう すけくに)」であった。

鎌倉時代の残された史料である「八幡愚童訓」によれば、このときの元軍の勢力はおおよそ船450、兵員は3万人といわれる。宗助国が率いる対馬の戦力は80余騎といわれ、戦力は圧倒的であった。

しかし、この戦いによって対馬・壱岐に侵攻してきた元軍の情報が日本側にもたらされたことは重要であった。

実際の日本軍と元軍との戦力比は?

初戦における元軍と対馬側との戦力差は、単純比較で「3万」と「80騎」であった。

ただし、日本側が史書に残す「80騎」という表現は、「馬上の人間が80」という意味であり、ここに郎党や従卒、いわゆる弓兵や歩兵が続くため、実数としては80騎に対してそれぞれ3~4人程度を追加し、おおむね240~320人前後の軍勢だっただろう。

また、元軍も軍船から小舟に乗り移って島に上陸するために、実際に対馬で戦闘を行ったのは1000人前後であったともいわれる。

このような数字の比較でいえば、元軍が博多に上陸した際の軍勢についても、日本側は江戸時代に編纂された「歴代鎮西要略」で、日本側を「25万騎」と表現している(※元軍は数百万)。実際に25万騎が博多に集合したとすると、日本側の兵数は75万~100万人以上ということになろうが、歴史人口学のウィリアム・ウェイン・ファイスによる鎌倉時代の推定人口では、日本全国の人口で600万人前後であるから、この数は現実味がない。

兵の数は推定するほかないが、日本側は「御家人約1万人」という史料もある。仮に日本側を1万人とした場合、兵の実数ではモンゴル側に利があるものの、日本側には地の利があり、また勇猛で知られる九州の御家人や鎌倉武士団が積極的に戦いに赴いたことは不自然ではない。

「台風がなければ日本は負けていたかも」は本当?

元寇

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学校の歴史の授業などで、「元軍は台風がきたため撤退した」「日本は台風に救われた」と聞いた人がいるかもしれないが、この説には疑問が呈されている。

台風が元軍を襲ったことは元側の史料にも残っているが、実際のところは、戦闘により元軍側が予想を超える損害を受けたために撤退し、その途上で台風に遭遇した、というほうが現実に即していると考えられる。

文永の役においては、元軍は早良郡にある赤坂を占領して陣を築いていた。戦いを終えた元軍が船に引き上げていたという話もあるが、それは陣を築く前の段階であり、陸地に陣を築くことに成功していれば、わざわざ不安定で士気も下がる「船」に引き上げる必要性はない。

戦闘においては、「赤坂の戦い」では菊池武房の軍勢による襲撃で元軍を麁原へと敗走させているし、その後の「鳥飼潟の戦い」では、竹崎季長・白石通泰・都甲惟親ら武士団の奮戦によって、元軍は百道原へ敗走している。さらに、その後の百道原の戦いでは、元軍の副都元帥(上位指揮官の一人)である劉復亨が矢で負傷している。

この後、元軍では軍議が行われ、「矢が尽きたため」との理由で撤退を決定、撤退中に台風に遭っている。

なお第二回侵攻である弘安の役においても、元軍の先鋒として訪れた「東路軍」は「志賀島の戦い」「壱岐島の戦い」で日本軍からの攻撃により潰走状態となり、後続の「江南軍」と合流したあとも「鷹島沖の戦い」において大きな損害を出した後に台風に襲われているという状況だ。

騎兵を密集させて集団で突撃する日本軍。クビライに仕えた王惲も武士の様子を「騎兵は結束す」と記している。

「台風(=神風)」が日本を救った?

台風がなければ日本が敗れていた」という言説を指して、「当時の日本が弱かったことを強調している、戦後教育による『自虐史観』だ」という批判があるが、実はこれも正確ではない。確かに戦後教育の中で、日本の武士の奮戦エピソードが軍国主義と結び付けられるという懸念や配慮から、「台風により壊滅した」という記載となった部分もある。

しかしながら、武士団の活躍よりも台風(=神風)により元軍が壊滅したという論調を取ったのは、「神国思想」の教育のためむしろ戦中の教科書が先である。

おわりに

元寇については、時代ごとに評価が様々に分かれる。

台風がなければ勝てなかった、日本の武士は元軍に圧倒されたという史観もあれば、最近ではむしろ元軍が鎌倉武士団に恐れをなしたというような過剰な評価もある。これからも元寇に関しては新たな事実や研究が進められるだろう。かつて支持されていた説に固執してしまっては、検証は進まない。

「台風」史観から別の説が支持されはじめた今こそ、様々な史料や学説をもとに、元寇の真実に挑む時代なのかもしれない。

 

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