芸術作品と聞くと、どこか貴族的で、美術館の中に飾られた大芸術家の作品を思い浮かべる人も多いでしょう。
しかし一世紀以上前のフランスで、美は自然からもたらされ、身近な品々の中にも宿ると信じ、芸術界の一大改革者となった人物がいます。
彼の名はルネ・ラリック。
日本でも愛好家の多い彼の足跡を、改めて辿ってみました。
豊かな才能と父の死
ラリックこと、ルネ=ジュール・ラリックは、1860年4月6日フランス北東部シャンパーニュ地方のアイ村に生まれました。
生まれ故郷のアイ村は、自然豊かな地域でありつつ国際的なシャンパン・ビジネスも行っており、こうしたルーツが後にラリックが開花させる「芸術と企業経営」という、一見相反する才能を両立させるための素地となります。
ラリックは12歳になるとパリの中高等学校に入学し、デッサンを学びます。デッサンでは賞を取るなどして、学生としての生活は順調だったものの、16歳の時に行商人であった父親が亡くなり、それ以上の学業は断念せざるを得ませんでした。
ところがこの父親の死をきっかけに、ラリックの才能はより一層の開花を見せ始めます。
宝飾工芸家ルイ・オコックの工房に弟子入りし、働き始めたラリックは、新しい装身具の創造に熱意を注ぐようになったのです。
そして一度は諦めた学業の道を再開、装飾美術学校に通い夜間授業で、再びデッサンを学び続けました。
美の都パリから産業革命のロンドンへ
1878年、ラリックは単身でロンドンに渡りました。
当時、パリは装飾美術や宝飾品の中心地でしたが、装身具をはじめとする装飾美術に熱心な彼が、なぜあえてロンドンで学ぼうとしたのか、その理由には時代背景が深く関わっています。
その頃のイギリスは、産業革命を経て近代化に成功していました。さらに、「アーツ・アンド・クラフト運動」という、量産化が進む工芸に対して、美術家がいかに関わり、美と工芸の質をどう高めるかという議論が高まっていたのです。
ラリックは、この時代の流れから学び取る絶好の機会を逃しませんでした。
また、1851年のロンドン万博を契機に、頻繁に開催されるようになっていた国際博覧会からも大きな刺激を受けました。
これらの博覧会を通じて、ラリックは「芸術は王侯貴族や特権階級のためだけではなく、万人のためのものである」という新しい思想に触れていったのです。
あくなき追求心と激しい恋
こうしてロンドンで多くを学んだラリックは、1880年にフランスへ帰国し、親戚の工房での経験を経て、宝飾デザイナーとしての道を歩み始めます。
やがて自らの工房を構え、私生活でも裕福な妻を迎えましたが、30歳頃にオーギュスティーヌ=アリス・ルドリュと出会い、深い愛に落ちます。
この出会いは、ラリックに新たなインスピレーションを与え、彼女から着想を得た新しい装身具の創作に夢中になっていきました。
ラリックが目指した宝飾芸術は、まさに万人に美を届けようとするものでした。
ダイヤモンドやサファイヤといった高価な宝石ではなく、半貴石と呼ばれるメノウやトパーズなどを効果的に生かし、ガラスの粉と顔料を混ぜて焼きつける七宝の技法を駆使し、自然界の色や質感を再現することにも挑戦しました。
アール・ヌーヴォーの潮流の中で
1889年、ラリックの作品が初めて第四回パリ万博に出展されました。
ちょうどその頃、19世紀後半のヨーロッパでは、日本の浮世絵や工芸装飾品が「ジャポニスム」として大いに愛好されていました。
当時の芸術観において、日常生活で使われる工芸品は「小芸術」として軽んじられていましたが、万博で紹介されたジャポニスムの工芸品は、驚くほど高い芸術性を持っており、西洋の若い芸術家たちに大きな衝撃を与えました。
彼らは、工芸品を単なる日常用品から「芸術」へと昇華させ、日常生活を芸術的に彩る「アール・ヌーヴォー(新しい芸術)」という一大ムーブメントを引き起こします。
このアール・ヌーヴォーの潮流は、まさにラリックが目指していた、自然と芸術が融合した工芸の世界観と完璧に一致していました。
ラリックのこうした独創性を、当時の保守的な宝飾業界は理解することが出来ませんでした。
しかし、当代きっての人気女優サラ・ベルナールがラリックの良き理解者となり、彼女が舞台上でラリックの装身具を着けたことなどから、彼の名は一躍広まることとなります。
ガラス工芸とアール・デコ
続く1900年第五回パリ万博では、ラリックの作品が大好評を博し、彼は40歳にしてすでに巨匠と呼ばれる地位に達していました。
しかし、彼の探究心は決してとどまることがありませんでした。
ラリックは、宝飾工芸の時代に習得した七宝細工の技術をさらに洗練させ、次にガラス工芸の世界へと進出します。
1908年には、香水商フランソワ・コティから依頼を受け、香水瓶をデザインしたことを皮切りに、花瓶、グラス、照明器具など、ガラス作品を量産する「ガラス産業の芸術家」としての道を進み始めます。
1920年代は、ラリックにとってガラス工芸制作活動が最も充実した時期でした。
そして、第一次世界大戦やロシア革命、ハプスブルク家の崩壊といった歴史的転換期は、ラリックに新たな追い風をもたらしました。
芸術の庇護者は、いまや貴族社会ではなく、活気溢れる大衆社会となったのです。
そして新しい大衆たちは、それまでの自然をモチーフとした優美なアール・ヌーヴォーから、シャープでモダンな「アール・デコ」と呼ばれる様式を求めました。
ラリックはいち早くこの時代の要請に応え、厚地の力強い作品を次々と生み出すようになります。
苦難の最晩年
しかし、精力的に制作を続けていたラリックにも、晩年には暗い影が訪れました。
その影とは、1939年に勃発した第二次世界大戦です。ドイツ軍によるフランス占領に伴い、ラリックの二つの工房は操業を停止せざるを得なくなり、そのうちアルザスにあった工房はドイツ軍に接収されてしまいました。
1945年5月5日、ラリックはようやく「アルザスの工房が連合軍によって解放された」という知らせを受けます。そして、その知らせが来るのを待っていたかのように、間もなく85年の生涯を閉じたのです。
ラリックは、それまで特権階級に限られていた美を大衆の日常に広げました。彼の功績は、ありふれた日常の中にも美が潜んでいることを、私たちに示してくれたとも言えるでしょう。
そして、その教えは今もなお色あせることなく、生き続けているのです。
参考:『ラリックをめぐるフランスの旅』南川 三治郎 (著)
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