はじめに
日本の首都「東京」。2020年のオリンピックも決まりますます発展していく東京ですが、もちろん最初からこのようなところではありませんでした。
そこには涙ぐましい江戸発展の物語が隠されていたのです。
そこで今回は、江戸から東京になるまでの歴史や東京にある様々な地名の由来について調べました。
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江戸から東京への道
1590年、徳川家康が初めて見た「江戸」の風景は見渡す限り湿地帯であり、江戸城とは名ばかりのさびれたお城が立っているだけだったようです。
ちなみに江戸というのは「穢土」【えど】汚れた土地という意味だそうで、当時どれだけ荒れ果てていたかがよくわかります。
なおこの説には、疑問もあり、大坂や仙台と並ぶくらいの海運都市ではなかったかという説もあり、まだ議論がわかれています。
その後、家康は江戸港を埋め立てて、町人たちが住めるようにしたり、隅田川と平川を合流させ、江戸城の外堀として機能すると同時に、江戸の街中に水や物資を運ぶ上水としても、活用しました。現代で言う神田上水です。
そして発展した姿が今の「東京」であるわけです。ちなみに「江戸」から「東京」にすることを最初に考えた人物は佐藤信淵【さとうのぶひろ】という男です。
彼は著書の中で。
「日本が世界に進出するには江戸を東京、大阪を西京、それと京都の三京にすべきである」
と説いています。影響をうけた大久保利通が1867年江戸を「東京」と改め、天皇の2回の行幸【1回目の行幸では江戸城に入られ、東京城と改め、2回目は現在の御所に入られた】により遷都が行われました。
なぜ「京」とつけたかというと、公家に対する配慮があったといいます。依然朝廷の力は強く、新政府になったとしても無視できる存在ではありませんでした。
そしてもうひとつ重要なことは、一応現代では東京が首都になっていますが、厳密にいえば昔から遷都【都をうつす】には詔【天皇が出すおふれ】が出ることが通例となっていましたが、このときに限っては出ておらずその意味において日本の首都は「京都」という解釈もできるわけで、これも公家に配慮したことなのだと考えられます。
東京の有名な地名の由来
東京には実に多くの地名が存在します。例えば東京駅の八重津口の「八重洲」というのは徳川家康の外交顧問であったオランダ人のヤンヨーステンの和名「耶揚子(やよす)」という人物の屋敷があったことからこの地名がつけられたと言われていますし、東京の隣の駅の「有楽町」は織田信長の弟、大河ドラマ『真田丸』にも登場した織田有楽斎【おだうらくさい】の屋敷があったといわれています。
このように様々な由来が隠されています。
今回は数ある東京の地名の中から新宿、品川、八王子の由来について調べてみます。
【新宿の由来】
江戸時代の新宿の様子
新宿はその文字の通り、新しい宿場として発展した街です。
江戸時代の初め、幕府は江戸から名古屋方面にいく東海道、日光東照宮にいく日光街道、東北方面に行く、奥州街道、群馬、長野方面に行く中山道そして、八王子から甲府を通り上諏訪で中山道と合流する甲州街道がありました。
これらは「五街道」と呼ばれ、街道にはいくつかの宿場が点在し、そこでは文字通り旅人を泊める宿もありましたが、一番の業務は隣の宿場から運ばれてきた公用の物や、手紙などを次の宿場まで運ぶという業務がありました。
現代でいうところの郵便局のような機能もありました。
当時五街道のひとつ、甲州街道を利用する人々はある悩みを抱えていました。それは甲州街道の出発点の日本橋から次の宿場である高井戸が遠いということでした。ちなみに現代の地図では18キロあります。
18キロは普通に歩いても3時間ほどはかかります。まして重い荷物を運んでいたらもっとかかるでしょう。
そこで高松喜兵衛という浅草商人が日本橋と高井戸の間に新しい宿場を作るよう、幕府に嘆願します。幕府は審査の上5600両【今の約2億円]を払うことを条件に宿場の開設を許可しました。
これにより東京日本橋と新宿の間は、18キロから7キロほどになり、商品の流通や旅人の往来がスムーズに行われることになります。
当時このあたりには、徳川家の譜代家臣である内藤家の屋敷があったため、「内藤新宿」と言われました。
この計画が実行できたのは、必ず繁栄して2億円の元以上のお金が手に入るという自信があってこそ。高松喜兵衛ら浅草商人たちの先見の明には驚きです。
【品川の由来】
江戸時代の品川
古くから目黒川の河口付近は「品川」と呼ばれており、なぜ「品川」とが呼ばれたかについては諸説あります。今日はこの中からふたつ紹介します。
- かつてこの地は港として栄え、【品】がよく往来していたため、品物が川のようになっている様から「品川」と呼ばれたという説
- 品川の隣にある「高輪」という地域に対して、品川の方が良い地域「品のいい土地」であったことから「品川」となった
他にも当時このあたりを治めていた豪族が品河という姓を名乗ったなどありますが、詳細はわかりません。
【八王子の由来】
東京都の西部山梨県との県境にある八王子市には、その名の通り由来には八人の王子が出てきます。
西暦913年【平安時代中期】妙行【みょうこう】という京都から来たお坊さんがいました。
深沢山【現八王子城山】
妙行は深沢山【現八王子城山】の岩屋で修行をしていると、にわかに強風が吹き妖怪たちが群れをなして襲ってきますが、不思議と妙行のまわりにくると姿を消してしまいました。
やがて月明りの夜、経を唱えていると、今度は大蛇が現れ、妙行の周りにとぐろを巻いて寝てしまいました。
妙行は持っていた如意棒で、大蛇の頭を叩き「目を覚ませ」というと、たちまち大蛇は消え去ります。
やがて夜が明けると八人の童子【八王子】を伴った神様があらわれ、
「私に属する神々や弟子たちはあなたの徳に感服しました。できればここにとどまってください。私はあなたの神護の法に従います」
と告げたといいます。この神様は牛頭天王【ごずてんのう】といって疫病や農産物の害虫などを取り去る神様として古来より信仰されていた神様でした。
このお告げに従い妙行は916年、深沢山を「天王峰」と改め、周りの8つの峰を「八王峰」として牛頭天王と八王子を祭ったといわれています。
これが現在の八王子信仰の始まりと言われています。
翌年、深沢山のふもとに寺が建てられ、さらに939年には妙行の功績が時の朱雀天皇の耳にも入り、やがてその寺は牛頭山神護寺【現宗関寺】として発展していくことになるのです。
まとめ
たかが地名と言えど、そこには様々な物語があります。
品川などのように、単にその景色から名付けられたものから、新宿や八王子のように、歴史にある出来事にあやかってつけたものまで、由来は様々あるのです。
一度自分が住んでいる土地の地名も調べてみてはいかがでしょうか?
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