2018年、NHK大河ドラマ『西郷どん』の主人公・西郷隆盛。
(画像 wikipedia)
西郷は生涯で二度、「島流し」になっています。
その理由について調べました。
西郷隆盛の前半生
西郷隆盛は文政10年(1827)、鹿児島城下加治屋町にて誕生します。
弘化元年(1844)、17歳のころ、郡方書役助(米の出来高を見積もり納めさせる役所の書記)となり、のちに薩摩藩主・島津斉彬に取り立てられるまで、郡方奉行の下で勤仕します。
安政元年(1854)、27歳のときに藩主・島津斉彬に取り立てられます。
藩主斉彬に従って江戸に行き、庭方役となります。
それ以後の西郷は、さまざまな人物たちと交流を深めていきます。
水戸藩の藤田東湖・戸田忠太夫、越前藩の橋本左内、肥後藩の長岡監物など、各藩の人物たちとの交流が始まります。
こういった幅広い人脈は、その後の西郷の活躍の場を広げることになりました。
西郷にとって、最初の大きな転機が島津斉彬に取り立てられたことならば、次の転機は将軍継嗣問題に参入したことでしょう。
薩摩藩・主島津斉彬は、将軍・徳川家定の後継者に一橋慶喜(徳川慶喜)を推挙していました。
欧米列強の脅威が迫ってくるなど混沌とした時代に、聡明な人物と評判の高かった慶喜が次期将軍にふさわしいと斉彬は期待していたのです。
一橋慶喜を次期将軍にしたい人々は他にも松平慶永・山内豊信・伊達宗城などがいました。
島津斉彬は、慶喜を将軍に擁立する工作に西郷をあたらせました。
斉彬の同志である越前藩・松平慶永の家臣に橋本左内がおり、共同して活動していくことになります。
ここに、次期将軍を誰にするのか、「一橋派(慶喜を推す)」と「南紀派(慶福を推す)」の対立、将軍継嗣問題が起こったのです。
最初の島流し
西郷らの活動は実を結びませんでした。
「南紀派」であった井伊直弼が大老に就任し、通商条約への調印や幕閣の刷新などを次々と進め、将軍継嗣も徳川慶福(後の家茂)に決定したのです。
その直後、将軍・徳川家定が亡くなり、正式に慶福が将軍となり「徳川家茂」が誕生しました。
井伊直弼は反対した大名やその家臣に弾圧を加えていきます。
俗にいう「安政の大獄」です。
京都や江戸で活動していた西郷も身の危険が迫り、清水寺の僧である月照を連れて鹿児島亡命を図ります。
しかし、薩摩藩は幕府の嫌疑を恐れて月照の鹿児島入りを拒みました。
進退きわまった西郷は、月照と共に鹿児島湾に投身しますが、側にいた平野国臣らに救助され、西郷だけが蘇生しました。
この事態に薩摩藩は西郷を死んだことにし、奄美大島に謫居(島流し)させることを決定します。
安政6年(1859)1月12日、西郷は奄美大島龍郷村に上陸しました。
二度目の島流し
西郷の奄美大島謫居は3年間に及びました。
そんな中、鹿児島では西郷を中心とする「誠忠組」のメンバーが薩摩藩の要職に就いて発言力を増していました。
西郷召喚論が起こります。
それを受け、薩摩藩の実権を握っていた国父・島津久光は了解。
文久2年(1862)2月12日、西郷は召喚されて鹿児島に到着し、同時に徒目付に任命されます。
島流しから無事に帰還したのでした。
当時の薩摩藩は、島津久光が率兵上京する計画を立てていました。
政治改革を迫ろうというものです。
帰還した翌日、小松帯刀や大久保一蔵(利道)と会談した西郷は、この計画に強く反対の姿勢を示していました。
久光とも対面し、反対の姿勢を示しますが、結局は従うことになります。
西郷は、久光が無位無官であることや京都や江戸で活動したことがないことなどを理由に、この計画に無理があると感じたようです。
「下関で久光一行を待て」という命令により、先発して村田新八とともに鹿児島を出立することになりました。
この一週間後に薩摩藩内にて、過激な浪士と交わることを禁じる布告が出されています。
西郷・村田は、下関に到着して白石正一郎宅に入りますが、小河一敏・平野国臣らが決起のために大坂へ出発しようとしていたため、京坂を統制するべく島津久光一行を待たずに下関を出発して上方を目指します。
西郷は、「下関で待機すること」「過激浪士と交流しないこと」というふたつの命令に違反してしまったのです。
さらに、西郷と途中で出会った薩摩藩士の堀次郎や海江田信義が、島津久光に「西郷が過激発言をした」「西郷が平野国臣らと共に戦死すると発奮していた」という報告を行い、久光が激怒します。
西郷は、島津久光のいる兵庫に行き、須磨海岸にて大久保一蔵と会談し、服罪することを決心します。
西郷は村田新八・森山新蔵と共に大坂へ移され、次いで鹿児島へ移されます。
森山は途中で自害しました。
それから約2か月後に西郷は奄美大島・西古見に寄港し、さらに沖永良部島に移されます。
こうしてまた、2年あまりの謫居生活が始まることになったのです。
西郷が再び帰還するのは、元治元年(1864)2月のことです。
この後、西郷隆盛は二度目の謫居生活を経て、再び表舞台に返り咲きます。
そのときも、西郷待望論が起こっての帰還でした。
二度とも待望論が起こっていることからも、西郷がいかに人望のある人物だったのかわかる事例が、この「島流し」といえるでしょう。
<参考文献>
維新史料綱要データベース
『大西郷全集』第一巻(大川信義編 平凡社 1925年)
『西郷隆盛(上)』(井上清 中央公論新社 1970年)
『西郷隆盛と士族』(落合弘樹 吉川弘文館 2005年)
よくわからん