高倉院崩御から都落ちまで
同正月十四日、六波羅池殿にて、上皇遂に崩御なりぬ。(「平家物語」巻六『新院崩御』)
治承5年(1181年)1月、高倉院が21歳で崩御した。
かつて高倉天皇と中宮徳子の栄華を歌にした右京大夫はこのように歌った。
雲の上に行末遠く見し月の光消えぬときくぞ悲しき
(宮中で末永く栄えると思ってみていた月の光が消えたと聞くのは悲しい)
ここでは月が高倉天皇を象徴している。
「平家物語」には我が子である高倉天皇を亡くした後白河法皇の悲しみについて述べられた後、このような記述がある。
入道相国、かやうにいたくなさけなうふるまひおかれし事を、さすがおそろしとやおもはれけん、法皇なぐさめまゐらせんとて、安芸の厳島の内侍が腹の御むすめ、生年十八になりたまふが、優に花やかにおはしけるを、法皇へまゐらせらる。(「平家物語」巻六『廻文』)
清盛は法皇を慰めるために、厳島神社の内侍との間に産まれた自分の娘をさしあげたという記事なのだが、実はこの背後には、別のある計画が存在していた。
藤原兼実の日記「玉葉」治承5年正月13日の記事である。高倉院崩御の直前のこと。
ここにはもしも高倉院が亡くなった際には、徳子を後白河法皇に差し上げようとする計画があったが、「そんなことになるならば出家する」と徳子が固く拒んだため、別の娘が法皇に嫁ぐこととなったとの旨が書かれている。
確かに平家にとって、後白河法皇とのつながりは重要であっただろう。
だが「闘病中の夫である高倉院が亡くなったら、その父である後白河の妻となれ」と言われた徳子の気持ちを思うと、どうにも忍びない。
そしてさらに徳子に悲しい出来事が訪れる。
同四日、やまひにせめられ、せめての事に板に水を沃て、それにふしまろびたまへども、たすかる心地もしたまはず、もんぜつびゃくぢして、遂にあつち死にぞしたまひける。(「平家物語」巻六『入道死去』)
治承5年(1181年)閏2月、徳子の父である清盛が熱病に苦しんだ末に亡くなったのだ。
屋台骨である清盛を失った平家は勢いを失い、とうとう木曽義仲(源義仲)の上洛を許すこととなり、西国へ都落ちしていく。
その際の徳子と兄である宗盛との会話の場面が「平家物語」巻七『主上都落』に記されている。
同じき七月廿四日のさ夜ふけがたに、前内大臣宗盛公、建礼門院のわたらせ給ふ六波羅殿へ参ッて申されけるは、「此世のなかのあり様、さりともと存じ候ひつるに、いまはかうにこそ候ふめれ。ただ都のうちでいかにもならんと、人々は申しあはれ候へ共、まのあたりうき目を見せ参らせむも口惜しう候へば、院をも内をもとり奉ッて、西国の方へ御幸行幸をもなし参らせて見ばやとこそ思ひなッて候へ」と申されければ、女院「今はただともかうも、そこのはからひにてあらんずらめ」とて、御衣の御袂にあまる御涙せきあへさせ給はず。大臣殿も直衣の袖しぼる計に見えられけり。
(寿永2年7月24日の夜更けごろに、前の内大臣平宗盛公が、建礼門院のいらっしゃる六波羅殿に参って申されたことには、「今の世の中の様子は、そうはいってもどうにかできると思っておりましたが、もはやこれまでのようでございます。ただ都の中でどうにでもなろうと、人々は申しあわれますが、悲惨な光景を目の当たりに見せ申し上げるのも残念ですので、後白河院と安徳天皇をお連れ申し上げて、西国の方へ御幸行幸させ申し上げてみたいと思うようになりました。」と申されたので、建礼門院は「今はただともかく、あなたのとりはからいにまかせましょう」と、衣のたもとにこぼれる涙をせき止めることがおできにならない。宗盛どのも涙で直衣の袖がしぼれるほどに見えなさった。)
壇ノ浦から大原へ、六道之沙汰
その後、平家は屋島(讃岐国にあった島、現在は陸続き)を本拠地として徐々に勢力をとりもどすも、「鵯越の坂落とし」や「敦盛最期」などで有名な「一の谷の戦い」に敗れ、さらに「那須与一」の扇の的で有名な「屋島の戦い」にも敗れ、元暦2年(1185年)、「壇ノ浦」で滅亡(政権の完全喪失)に至る。
皇子誕生の治承2年(1178年)から、わずか7年後のことであった。
徳子は目の前で母である二位尼時子が、我が子 安徳天皇を抱いて、入水する姿を見届けた後、自身も海へと身を投じたが、源氏の軍勢によって、船へと引きあげられてしまう。
(*下関の地下道に施されたタイル装飾より。撮影・武蔵大納言)
その後、徳子は出家し尼となった。
「平家物語」の中でも標準的なテキストとされる覚一本は、本編十二巻に加えて、最後の「灌頂巻」を配置し、この中でその後の徳子の様子を描く。
密教の秘伝伝授のことを「灌頂(かんじょう)」というところから、平曲の秘曲伝授に重ねてこのように命名されたとも言われる。
徳子は、東山の麓の吉田というところの僧坊に仮住まいの後、大原の寂光院へと住まいを移す。
文元年長月の末に、彼の寂光院へいらせ給ふ。道すがら、四方の梢の色々なるを、御覧じすぎさせ給ふ程に、山かげなればにや、日も既にくれかかりぬ。野寺の鐘の、入相の音すごく、わくる草葉の露しげみ、いとど御袖ぬれまさり、嵐はげしく、木の葉みだりがはし。空かき曇り、いつしかうちしぐれつつ、鹿の音かすかにおとづれて、虫の恨みも、たえだえなり。とに角に、とりあつめたる御心ぼそさ、たとへやるべきかたもなし。浦づたひ島づたひせし時も、さすがかくはなかりし物をと、おぼしめすこそかなしけれ。岩に苔むして、さびたる所なりければ、住ままほしうぞおぼしめす。
(文治元年9月の終わりに、その寂光院に徳子はお入りになった。道中、周囲の木々の梢が色とりどりに紅葉している様子をご覧になりつつ過ぎ行きなさる間に、山陰であるからだろうか、日もすぐに暮れかかった。野寺で鳴る夕暮れの鐘の音はもの寂しく、踏み分ける草の葉のつゆが多いので、ますます袖が濡れまさって、嵐が激しく木の葉も乱れ散っていた。空が曇って、はやくも時雨が降って、鹿の声がかすかに聞こえてきて、虫の恨むように鳴く声も絶え絶えに響く。あれこれと、とりそろえたかのような心細い風情は、何にもたとえようがない。「浦々島々を漂った時も、そうはいってもこれほど切なくは無かったのに」とお思いになったのは悲しいことだ。岩に苔がむして、もの寂しいところであるので、住みたいとお思いになった。)「平家物語」灌頂巻『大原入』
徳子は「わが子安徳天皇の魂が悟りに達し、すみやかに菩提に至りますように」と祈りながら日々を暮らした。
そして、そんな大原 寂光院を、ある時、思いがけない人物が訪れた。後白河法皇である。
文治二年の春の比、法皇、建礼門院大原の閑居の御住ひ、御覧ぜまほしうおぼしめされけれども、二月三月の程は風はげしく、余寒もいまだつきせず。峯の白雪消えやらで、谷のつららもうちとけず。春過ぎ夏きたッて北祭も過ぎしかば、法皇夜をこめて大原の奥へぞ御幸なる。
(文治2年の春の季節、後白河法皇は建礼門院の大原の静かなお住まいを、ご覧になりたいとお思いになったが、2月3月の頃は風も激しく、寒気も残って尽きていない。峰に積もった白雪は消え切っておらず、谷の氷も解けていない。春が過ぎて夏がやってきて北祭りも過ぎたので、法皇は未明のうちから大原の奥へとお出ましになる。)「平家物語」灌頂巻『大原御幸』
寂光院に着いた法皇が、徳子のいる庵室を見ると、軒にはツタや朝顔がはいかかり、屋根を葺いた杉もまばらとなっていて、すき間から光や風の漏れる粗末な住まいであった。
法皇が「誰か人はいないか」と呼びかける。現れた老い衰えた尼に問いかけると、老尼は「女院は、この上の山に花を摘みに入っている」との旨を答えた。
かつて高倉天皇の中宮であった平家の姫が、今や山奥を自ら歩いて花を摘む。そんな境遇に置かれていることを知って法皇は心を痛めたのであった。
そうしているうちに、上の方の山から、濃い墨染めの衣を着た尼が二人、岩のがけの道をつたいながら、難儀しながら下って来た。
花籠を肘にかけて、岩つづじを取りそえて持っていた尼こそが、かつての中宮、建礼門院徳子であった。
そして、この大原寂光院で徳子が後白河法皇を前にして語ったのが「六道之沙汰」である。
「六道」とは、仏教の輪廻思想において、衆生がその業に従って死後に赴くべき六つの世界である。
地獄道、餓鬼道、畜生道、阿修羅道、人間道、天道
の六つの世界を言う。
徳子は「生きながらにして六道を見た」と生涯を振り返って語る。
「我れ平相国のむすめとして天子の国母となりしかば、一天四海みなたなごころのままなり。」
「あけてもくれても楽しみさかえし事、天上の果報も是には過ぎじとこそおぼえさぶらひしか。」
清盛の娘、安徳天皇の母として、思うがままに生きていた時は、まさに「天」にあったかのような気持ちであった。
だが、その運命も一変してしまう。
「それに寿永の秋のはじめ、木曾義仲とかやに恐れて、一門の人々住なれし都をば雲井のよそに顧みて、」
義仲上洛に伴って、平家一門は都を遠くに眺めることとなった。
「かくて寄る方なかりしは、五衰必滅の悲しみとこそおぼえさぶらひしか。」
頼るものもなくなり、徳子は天人五衰の悲しみを体験する。
天人五衰とは、天界の神々である天人の命が終ろうとするとき、五つの衰えが生じること。
1、衣服垢穢(いふくくえ)(衣服が垢で汚れる)
2、頭上華萎(ずじょうけい)(かぶっている華の冠がしおれる)
3、身体臭穢(しゅうえ)(身体が臭くなる)
4、腋下汗流(えきけかんる)(腋の下から汗が流れる)
5、不楽本座(ふらくほんざ)(自らの位置を楽しまなくなる)
楽しかった日々は楽しかったからこそ、それが終わる時のショックは大きく、天人もそれを免れない。
徳子はこの世に生きながらも、天から転落する天人の悲しみを知り、「人間」としての苦に直面する。
「人間の事は愛別離苦、怨憎会苦、共に我身にしられてさぶらふ。四苦八苦、一として残る所さぶらはず。」
「四苦」とは人間として避けられない四つの苦しみである「生・老・病・死」のこと。そして八苦は四苦に以下の四つを加えたものである。
1、愛別離苦(あいべつりく)(愛するものと別れなければならない苦)
2、怨憎会苦(おんぞうえく)(怨み憎むものと出会わなければならない苦)
3、求不得苦(ぐふとくく)(求めても得られない苦)
4、五蘊盛苦(ごうんじょうく)(感覚・心身・存在などから生じる苦)
安徳天皇や平家一門の人々と別れ、源氏という敵に襲われた日々はまさに人間世界での苦の極みであった。
「むかしは九重(ここのえ)の雲の上にて見し月を、いまは八重(やえ)の塩路にながめつつ、あかし暮しさぶらひし」
(昔は宮中の雲の上で見た月を、今度は幾重にも重なった潮の上で、物思いをしながら眺めては、日々を明かしました)
徳子は、船に乗り平家一門が海路をさまよった頃を、回想して語る。
「浪の上にて日をくらし、船の内にて夜をあかし、みつぎものもなかりしかば、供御(ぐご)を備ふる人もなし。たまたま供御はそなへんとすれども、水なければ参らず。大海にうかぶといへども、潮なればのむ事もなし。是れまた、餓鬼道の苦とこそおぼえさぶらひしか。」
(波の上で昼を過ごし、船の中で夜を明かしたが、貢ぎ物もなかったので、食事を支度する者もいない。たまに食事を支度しようとすることはあっても、水がないので食べることができない。大海原に浮かんでいて水はあるようだが、塩水なので飲むこともできない。これもまた餓鬼道の苦しみと思いました。)
「餓鬼道」は「飢えと渇きに苦しむ世界」のこと。徳子は、まともに物を食べられず、飲み水にさえも事欠く暮らしを体験したのだった。
一方で、徳子は都では見ることのなかった武士達の戦闘の様子をも目撃することなる。
「明けても暮れてもいくさよばひの声たえざりし事、修羅の闘諍、帝釈の諍ひも、かくやとこそおぼえさぶらひしか。」
(明けても暮れても戦いの閧の声が絶えなかったことは阿修羅の戦い、帝釈天との争いもこのようであったのかと思いました。)
「修羅」の世界は闘争を好む阿修羅と、悪行をこらしめる神である帝釈天が戦い続けている世界である。徳子は源平の合戦に「修羅道」を見た。
そして我が子安徳天皇が目の前で亡くなっていったあの時のこと。
「二位の尼やがていだき奉ッて、海に沈みし御面影、目もくれ、心も消えはてて、わすれんとすれども忘られず、忍ばんとすれどもしのばれず、残りとどまる人々のをめき叫びし声、叫喚(きょうかん)大叫喚(だいきょうかん)の炎の底の罪人も、これには過ぎじとこそおぼえさぶらひしか。」
叫喚・大叫喚は八大地獄の4番目と5番目のもの。釜ゆでなどの激しい刑罰で叫ぶという意味で叫喚地獄であり、そのさらに激しいものが大叫喚地獄である。この世においてすさまじい「地獄」に遭遇したと徳子は語る。
そして源氏方に捕えられた徳子は播磨の国、明石の浦についた時、まどろんだ夢に、昔の内裏によりもはるかに優った所に、亡くなったはずの安徳天皇をはじめとした、平家一門の人々がいる様子を見る。「ここはどこですか」と問う徳子に、母である二位尼時子が「竜宮城」と答える。「ここには苦はないのですか」と問う徳子に、母時子は「竜畜経というお経の中に見えますよ」という言葉を言って、平家一門の菩提を弔うように言う。
「平家物語」覚一本は、この「竜畜経」を「畜生道」に対応させるのだが、どうも肩すかしを食ったような印象をぬぐえない。
実は、この「畜生道」ついての語りは異本では、違った内容となっている。ここでは延慶本の記述を見てみよう。
六道のうち五つまでを語るも、畜生道のことを語ろうとしない徳子に対して、後白河法皇が語るようにうながす。
徳子は多くの姦淫をした過去の人々の事例を長々と引用した後、ようやく
「船の中で兄宗盛・知盛らと一緒に過ごしていたことで、彼らと近親相姦の関係にあったという噂を立てられたことが畜生道である」
と告白する。
また「源平盛衰記」では兄 宗盛のみならず、義経との関係もが噂になったことを畜生道としている。
いずれにせよ、徳子の六道の語りを聞いた後白河法皇は
「生きながらにして六道を見るという経験は、中国の三蔵法師や、わが国の日蔵上人のような聖人がなしたことであって、本当に珍しく尊いことである」
との旨を述べるのだった。
徳子の極楽往生
その後、徳子はこの大原の地で平家の菩提を弔いながら余生を過ごし、建久2年(1191年)2月の中旬に、この大原の地でその生涯を終えたと「平家物語(覚一本)」は記す。これに従えば徳子は30代で亡くなったことになる。
だが、実はこの点についても史料によって違いがある。例えば、「平家物語(延慶本)」は徳子の亡くなった場所を「法性寺」とし、享年を68歳としている。
徳子の享年に違いはあるが、覚一本も延慶本も徳子の亡くなる際に、「西の方に紫の雲がたなびいて、音楽が空中に聞こえた」
と記す点は共通している。
西に紫雲たなびき、異香室にみち、音楽そらにきこゆ。かぎりある御事なれば、建久二年きさらぎの中旬に、一期遂におはらせ給ひぬ。(「平家物語(覚一本)」灌頂巻『女院死去』)
これは阿弥陀仏が来迎して、徳子が、極楽往生を遂げたことを意味している。
仏教の考えでは女性が往生を遂げること、いわゆる「女人往生」は極めて難しいこととされるのであるが、生きながらにして六道を見た徳子は、これを縁として往生の素懐を遂げることができたのであろうと私は思いたい。
また異本のひとつである「長門本」は徳子の享年を61歳とした上でこのように記す。
徳子が往生するとともに、平家一門もその縁にあやかったことは間違いない。
徳子が后の位のままでいたなら、華やかな暮らしに染まりきって、執着心にとらわれることとなったであろう。だが源平の争乱の中での心痛を経て、穢れた俗世を離れたいという気持ちが深くなったのだろう。かえって悪縁を善縁としたことで往生を遂げられたのだ。
ある人は「建礼門院は妙音菩薩の化身であった」と言った。
京都大原 寂光院レポ
実は私、武蔵大納言も徳子が尼として余生を過ごしたとされる大原寂光院を訪れたことがある。
あれは確か2011年のことだった。下鴨神社付近からバスに乗り約30分。
さらにバス停から山道を15分ほど歩いて、寂光院を目指した。
喧噪から逃れて、隠棲するのに相応しい場所であった。
途中の「雲井茶屋」で休憩。
白みそアイスを食べて、
寂光院に到着した。
当時、特別拝観が催されており、平成12年に発生した火事を経て、焼け残った地蔵菩薩像と、徳子の庵室跡を観ることができた。
こちらをご覧になれている読者諸君も、是非、一度 寂光院を訪れてみて欲しい。
源平の争乱に翻弄された、ひとりの女性が辿り着いたこの地。
花摘みに入った山道はいづくにやあらん。
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