戦国時代

戦国時代の古戦場が身近な場所に!古い地名に秘められた歴史のロマンをひもとく

全国各地にある「開かずの踏切」。筆者の地元である神奈川県鎌倉市にも「鎌倉踏切(かまくらふみきり。通称:大踏切)」という大きな踏切があり、ここを通る時、よく足止めを食らっています。

「おせーな、早く電車来いよ……ずっとカンカンうるせぇし……」

「跨線橋とか作ってくれないかな……」

「むしろ線路を地中化するって話はドコに行ったンだ……」

などなど、鉄道関係者の苦労も知らない筆者らがめいめい勝手なことを言っていると、踏切のたもとに看板が立っているのを発見。

鎌倉踏切の看板。見慣れない地名(戸部~)が新鮮。

そこには「鎌倉踏切 46K894M 鎌倉市台戸部2ノ口」と書いてあり、中段の46K894Mは東海道線の起点(東京駅)からの距離、下段の「鎌倉市台(だい)」までは住所(大字)と分かりますが、続く「戸部2ノ口(とべ にのくち)」って何でしょうか。

調べてみると、これは古い地名で現代の大字(おおあざ)に対して小字(こあざ。旧字名)と言い、行政管理の都合で統合された現代の地名に比べ、地形や特質、村落の単位などをより詳細に表しているものです。

今回はこの「戸部2ノ口」の調査を例に、古い地名について興味を持ってもらえたらと思います。

古代豪族の称号?それとも川の渡り口?

戸部(トベ)とは古代日本における称号の一つで、ヤマト政権(現在の皇室)の支配が及ぶ以前からこの土地を支配していた者が名乗っていたと考えられています。

鎌倉の小字名を表記した地図。川をまたぐ「戸部」の範囲は、古代トベ氏の勢力を示している?

こちらは鎌倉市北部の小字を示した地図で、戸部と書かれた(川をまたいだ)四ヶ所一帯を「トベ」氏が支配していたのでしょう。

※戸部の間にある梅田(うめだ)は田んぼを埋めた「埋め田」であり、比較的新しく名づけられた地名であることが判ります。

また、一説に戸は「渡」にも通じ、堅固な橋を架ける技術のなかった近世以前において、浅瀬だったり、流れが緩やかだったりなど、川を渡りやすい場所だったのではないかとも考えられます。

そして2ノ口とは入り口・出口のように川の「渡り口」を指し、戸部川の上流もしくは下流(地図から察するに、おそらく上流)に、戸部1ノ口が存在していたのでしょう。

里見VS北条……戦国時代「大永鎌倉合戦」の主戦場だった!

ちなみに、この2ノ口は戦国時代の大永6年(1526年)、安房国(現:千葉県南部)の里見実尭(さとみ さねたか)らが海を渡って鎌倉へ攻め込んできた「大永鎌倉合戦(鶴岡八幡宮の合戦)」の主戦場になりました。

北条(ほうじょう)勢の抵抗を突破して由比ガ浜より上陸した里見勢は、北条の拠点である玉縄(たまなわ)城の手前を流れる戸部川まで迫ります。

迫りくる里見の大軍……城主の北条氏時(うじとき)は、郷士の甘糟(あまがす)・福原(ふくはら)一族に迎撃を命じました。

戸部川の合戦で、里見勢を撃退する甘糟氏(イメージ)。

「ははぁ……里見の犬輩(いぬばら)何するものぞ!」

「おう、地の利は我らにあれば、寡兵とて恐るに足りぬ!」

かくして激闘の末に里見勢を撃退(※)。討死した北条・里見両軍の首級は互いに返還され、甘糟・福原両一族の首級は戸部川のほとり(現:鎌倉市岡本)に祀られ、「玉縄首塚(たまなわくびづか)」として現代に伝わっています。

(※)厳密には戦乱のドサクサに紛れて源氏の氏神様である鶴岡八幡宮が焼失してしまい、源氏の末裔である里見勢は「縁起が悪いから」と撤退していったのでした(後に再建のペナルティを課せられています)。

きっとあなたの身近にも!?まだまだ隠されている歴史のロマン

身近な地名について調べていると、意外な歴史を発見できて面白いものですが、近年では各種の合理化によってこうした面影が薄れつつあります。

先ほどの看板は踏切の両方に立っているのですが、その片方が新しくなり、そちらには「鎌倉(客貨)踏切 46K894M 鎌倉市台1-5-2」と住所表示が大字のみとなっていました。

鎌倉踏切の看板(新バージョン)。分かりやすくていいけど、ちょっと味気ないかも。

※余談ながら、鎌倉踏切は客貨用の踏切と電車区(車両整備などに用いる路線)の踏切が連続しており、よく中州に取り残されて残念なことになります。

管理しやすくなったのは結構なことだとは思いますが、ちょっと味気なく思ってしまうのは、きっと筆者だけではないはずです。

とは言っても、時代に流れに逆らうのは容易ではなく、また周囲は問答無用で変わっていってしまうため、やはり今の内に記録しておくのが賢明でしょう。

(※今は「こんなもの、わざわざ記録しておく必要・価値もない」と思っていても、これが10年、20年と時が過ぎるうち、思い出すことさえ出来なくなってしまうものですから、記憶への過信は禁物です)

踏切の看板に限らず、こうした歴史の面影はまだ生活のあちこちに残されているものですから、興味をもって調べてみると、自分の住んでいる土地により一層の愛着が湧いて、人生を豊かにしてくれることでしょう。

※参考文献:
鎌倉市教育委員会 編『鎌倉市文化財資料〈第7集〉としより の はなし』鎌倉市教育委員会、1971年12月
黒田基樹『戦国 北条一族』新人物往来社、2005年9月
下山治久『北条早雲と家臣団』有隣堂、1999年7月

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角田晶生(つのだ あきお)

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フリーライター。日本の歴史文化をメインに、時代の行間に血を通わせる文章を心がけております。(ほか不動産・雑学・伝承民俗など)
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