人物(作家)

北大路魯山人 波乱の生涯「美味しんぼ海原雄山のモデル」幼少期にたらい回され6度の離婚、娘は絶縁

北大路魯山人

北大路魯山人

漫画「美味しんぼ」で海原雄山のモデルとなった美食家と言えば、「ああ!なるほど!」とご存じの方も多いかと思われる 北大路魯山人 (きたおうじ ろさんじん)

かつてのフジTVの人気番組「料理の鉄人」では「かの魯山人の愛弟子の平野雅章」と審査員が紹介されており、北大路魯山人の名前はどこかで耳にしたことはあると思いますが、実際はどんな人だったのでしょうか?

北大路魯山人の数奇すぎる生涯

篆刻家・画家・陶芸家・書道家・漆芸家・料理家・美食家、など様々な顔を持つ魯山人は、波乱に満ちた生涯を送りました。

1883年(明治16年)3月23日、京都府愛宕群上賀茂村(現:京都市北区)の上賀茂神社の神官の家柄の社家の次男とし生まれ、房次郎と名付けられます。

実父は房次郎が生まれる4か月前に妻の不貞を厭い割腹自殺。魯山人は母の不倫相手の子供でした。

実母は房次郎を滋賀の農家に預けて失踪します。

出生から5か月後、房次郎は預けられた農家で放置されており、それを気の毒に思った巡査の家の養子となり、服部房次郎となります。
ですが、この巡査も行方不明となり妻も病死したために、この時の義理の兄夫婦に面倒を見てもらうこととなります。

しかし、房次郎3歳のころ義兄が死亡。義姉の実家に身を寄せるも義姉の母から虐待を受けます。

これを見かねた近所の人の口利きで木版師・福田武造の養子となり、福田房次郎となります。

福田家では、房次郎は6歳のころから炊事を買って出て、気に入られようと努めました。

10歳で尋常小学校を卒業後は、漢方薬局に丁稚奉公として住み込みで働きに出ます。

そのころ使い走りの最中に見た、仕出し料理や「亀政」の看板の竹内栖鳳(たけうちせいほう)の一筆書きの亀の絵に心を奪われ、絵画に対する興味を持ち始めます。

1896年、13歳で奉公を辞めて画学校への進学を望みますが、経済的に断念。養父の木版や扁額、篆刻の仕事を手伝いながらのちに勇躍する分野の基礎力を高めていきます。

14,5歳のころには、書道の展覧会に多数応募を重ね、次々と受賞します。受賞金で絵筆を買い求め我流で絵を描き始めます。

実母に会うも拒絶される

20歳のころ房次郎は従弟に実母の居所を告げられ、東京に合いに行きます。
しかし母には拒絶されてしまいました。そのまま東京に残り書家を志します。

1904年 21歳で日本美術協会主催の展覧会に出品した隷書「千字文」が褒状1等2席を受賞します。このころの号は福田海砂(ふくだかいさ)

1905年 町書家の岡本可亭(岡本太郎の祖父)の内弟子となります。
このころの号は福田可逸(ふくだかいつ)

1907年 可亭の門から独立、福田鴨亭(ふくだおうてい)を名乗ります。

1度目の結婚

1908年 1度目の結婚、長男が誕生。仕事は順調で稼いだ金を書道具・骨董品、外食につぎ込みます。

1910年 実母と朝鮮へ。母を兄のところに送り、自分は朝鮮を3か月旅したのち、朝鮮総督府で書記として3年勤めます。その間に日本で第2子誕生。

1012年帰国。書道教室を開きます。滋賀県長浜の素封家・河路豊吉に食客として招かれ書や篆刻に打ち込みます。この時期、今も魯山人の代表作として名高い小蘭亭に天井画や襖絵を残します。

このころの号は福田大観(ふくだたいかん)、敬愛する竹内栖鳳と交流が叶い、日本画壇の巨匠とも交流を深め、名を上げていきます。

1916年 1913年に亡くなった北大路家の長男に代わって家督相続を実母から請われ、北大路姓を継ぎます。このころより北大路魯山人の号を使い始めます。

京都・金沢の素封家の食客として転々と生活することで、食器と美食に対する見識を深めていきます。内貴清兵衛(ないきせいべい)は魯山人のパトロンとして有名です。

金沢の細野燕臺(ほそのえんだい)の紹介で須田菁華(すだせいか)窯で陶器の絵付けを学びます。

2度目の結婚

1917年 2度目の結婚。

37歳のころ、美術印刷を営む便利堂の中村竹四郎と知り合い、古美術店の大雅堂を共同経営します。大雅堂では古美術品の陶器に高級食材を使った料理を盛って常連客に出したことが評判を呼びます。

1921年 会員制食堂「美食倶楽部」を発足。魯山人自ら厨房に立って料理を作り、使用する食器も創作し始めます。

1925年 東京赤坂山王台に中村が社長、魯山人が顧問として「星岡茶寮(ほしがおかさりょう)の名で、会員制高級料亭を始めます。3000坪の敷地に建つ公卿家族用の社交会館を改築、冷暖房完備、料理人には白スーツを着させる豪勢な施設でした。

会員には、貴族院議長の徳川家達(いえさと)や男爵の藤田平太郎、侯爵の細川護立(もりたつ)、電力王の松永安左エ門、作家の志賀直哉、画家の鏑木清方(かぶらききよたか)などが名を連ねました。

3度目の結婚

1927年 3度目の結婚。100人を超える星岡茶寮の会員の食器を揃えるために、北鎌倉の7000坪の土地に宮永東山窯から荒川豊蔵を招いて魯山人窯芸研究所・星岡窯(せいこうよう)と住居を建設します。

食器は料理のきもの」と唱えた魯山人は、料理に合わせた食器を自らあつらえるようになります。

1930年 星岡茶寮の会員は千人を超え、「星岡の会員に非ざれば、日本の名士に非ず」とまで言われます。

1936年 魯山人の横暴な性格や金遣いの荒さから中村竹四郎に解雇を言い渡され、星岡茶寮を追放されます。

その後も結婚離婚を繰り替えす

1938年 4度目の結婚

1940年 5度目の結婚

1945年 星岡茶寮は空襲により焼失

1946年 銀座に自作の陶芸作品のギャラリー「火土火土美房(かどかどびぼう)」を開店。在日欧米人から高い評価を得ます。

1948年 6度目の結婚

1954年 ロックフェラー財団に招かれ、欧米各地で展覧会と講演会を開催、パブロ・ピカソ、マルク・シャガールを訪問します。

人間国宝を辞退、そして死去

1955年 織部焼の重要無形文化財(人間国宝)に指定されますが、「芸術家は位階勲等とは無縁であるべき」と2度の認定を辞退します。

1959年12月21日 肝吸虫による肝硬変のため、76歳で死去

1998年 管理人の放火と焼身自殺により、魯山人の終の棲家であった北鎌倉の星岡窯内の家屋は焼失します。

幼少より養家を転々とし、6度の結婚(すべて破綻)、2人の男児は夭折。溺愛した娘も魯山人の骨董を持ち出したことから勘当。家族の愛情には恵まれなかったようです。

美食家として名をはせた魯山人は、フランスを訪れた際、カモで有名な「トゥールダルジャン」でソースが合わないとわさび醤油で食べるなど、独自の美学を貫いた態度は漫画美味しんぼで海原雄山が再現しています。

傲岸・不遜・狷介・虚栄の態度は有名で、生前「高みを行く人間は大衆には決して理解されない」とちやほやされるのを嫌い、自らの信じる美こそ最高だと価値観を振りかざし、柳壮悦・梅原龍三郎・横山大観・小林秀雄、果てはピカソまでも罵倒する毒舌家でしたが、その天衣無縫ぶりは吉田茂らに愛されました。

魯山人の作品とは?

「教養なき自己流のデタラメ、当てずっぽうの作陶は所詮ものにならぬことを力説したい。要は名器を見て学ぶ態度を修行の第一としなくてはならぬ。これが私の作陶態度であることは言うまでもない」

という言葉を残した魯山人は、自宅に2000点を超える陶磁器を集め日々鑑賞し、自ら研鑽を重ね目と腕を磨きました。

魯山人こだわりの料理

美食家として有名な魯山人でしたが、庶民の料理にも並々ならぬこだわりを持っています。
その中からちょっと手をかければ真似できる料理をご紹介します。

納豆茶漬け

納豆を器に出し、何も加えず二本の箸でよく練り混ぜる。硬くて練りにくくなるまで手間を惜しまず練る。

そこへ醤油を数滴落としさらに練る。また醤油を数滴落として練る。これを繰り返し、糸のすがたが亡くなってどろどろになった納豆に辛子を入れてよく撹拌する。薬味にねぎのみじん切りを少量加えるとさらに良い。

こう拵えた納豆を茶碗に少量ご飯を盛った上にのせる。煎茶をかけ塩加減が足りない場合は醤油を数滴たらす。アツアツの飯に四分の一量の納豆が最もおいしい配合。

魯山人風すき焼き

すき焼き鍋に牛脂を溶かし、牛霜降り肉を入れる。
焼き色がついたら酒、みりんを少量と醤油を適宜加えたら溶き卵をつけて先ず肉を食べる。
出汁を少し足して豆腐、ネギの筒切り、春菊を煎り煮して肉の出汁を吸わせて食べきる。
再び肉を焼き、食べきって野菜を煎り煮を繰り返す。

なめこ雑炊

なめこをざっと水洗いし、薄味に炊いた粥の中になめこを入れてさっと火を通す

あんかけうどんのあんを作り、粥の上からかける。上にすりおろしたショウガをひとつまみのせる。

北大路魯山人に触れる

魯山人の納豆

タカラトミーアーツでは

食の極み 魯山人納豆鉢」を販売しています。

魯山人がこだわった旨味を最大限引き出した納豆を味わうことができます。

魯山人の作品を鑑賞できる美術館

・宮島「北大路魯山人」美術館
有名な椿の大鉢、備前、備前、志野茶碗、信楽などの技法を用いた魯山人の手による600点余りの陶芸作品をお楽しみいただけます。

https://www.rosanjinmuseum.jp/

・島根県安来市 「足立美術館魯山人館

https://www.adachi-museum.or.jp/archives/special/rosanjin-opening2020

魯山人を知る書籍

魯山人味道(中公文庫) 北大路魯山人著 平野雅章編
魯山人書論(中公文庫) 北大路魯山人著 平野雅章編
料理王国-春夏秋冬(中公文庫) 北大路魯山人著
北大路魯山人 上下巻(ちくま文庫) 白崎秀雄著
魯山人陶説(中公文庫) 北大路魯山人著 平野雅章編
魯山人の食卓(グルメ文庫) 北大路魯山人著
など

書籍で魯山人の器や書、食を知り、美術館で魯山人の本物に触れてみる。

魯山人の器は食事の着物であると謳っているので、(盛り付け方もうるさいことをたくさん述べておりますが、それはそれ)
興味が尽きないのならば、画廊や骨董店、ヤフオクなどでも売り買いされている魯山人の器は多くあります。

自作の料理などを盛り付けて楽しんでみてはいかがでしょうか?

 

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猫田茶々丸

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