人物(作家)

ナイチンゲールの生涯と功績 「イメージとは違う豪快すぎるエピソード」

ナイチンゲール と聞くと、多くの人は「白衣の天使」という言葉を思い浮かべるのではないでしょうか?

「優しい」「清らか」な天使のイメージを思わせる偉人、ナイチンゲール。彼女は本当にイメージ通りの人物だったのでしょうか。

ナイチンゲールの生涯

ナイチンゲール

フローレンス・ナイチンゲール

ナイチンゲールは1820年、イギリス人の両親の新婚旅行中にイタリアのフィレンツェで生まれました。

裕福な貴族階級の家に生まれた彼女は幼い頃から英才教育を受け、数学や語学、歴史などの多くの学問を修め、非常に優秀な成績を残したと言われています。16歳の時に「私のもとで奉仕しなさい」という神の声を聞き、旅行先で見た農民、工場労働者の薄汚れた姿に心を痛め、貧しい人や病人のために看護師の道を志しました。

1851年、ナイチンゲールは病床の姉を看護するという目的でドイツのカイゼルスベルト学園に滞在し、看護師としての教育を受けました。そしてロンドンの病院に看護師として就職します。

1854年、クリミア戦争が勃発します。

ロンドンタイムズの特派員により現地の傷病兵の悲惨な扱いが伝えられると、ナイチンゲールは従軍看護師として戦地に赴く決意をします。彼女が赴いた兵舎病院は極めて不衛生で、トイレなどはどの部署も仕事として割り振られていないという理由から汚れたまま放置されていたそうです。

彼女は不衛生な状況により蔓延した感染症に注目し、病院内を衛生的に保つよう命令し、着任当時、病院内の42%の死亡率を翌月には14.5%まで減少させたと言われています。

戦後はクリミア戦争の兵舎病院での死因が『傷による死』よりも『不衛生な環境による感染症』が多くを占めることをレポートにして発表し、下水道のインフラや虫よけなどの設備を戦場だけでなく街にも普及させるように訴えました。また、看護学校を創設し、看護学の祖となりました。

そして、看護師を『病院の召使』ではなく、『専門知識を持った職業』にまで昇華させました。この時、看護は個人の主観や気づかいから行うものではなく、確かな理論に基づく技術となったのです。

1910年、享年90で彼女は亡くなりました。クリミア戦争の英雄とされ、騒がれることを好まなかった彼女は遺言で、自分の墓にはイニシャル以外入れることを許しませんでした。

異例の経歴

看護師という職業は当時、病院内の召使というようなイメージで、決して良家のお嬢様がなるようなものではありませんでした。

彼女自身、両親や姉には反対され、姉とはそのせいで長い間、仲が悪かったそうです。ドイツのカイゼルスベルト学園に滞在していたのも、イギリスのみならず多くの国で、「看護師は他の職業が勤まらず家庭に入ることもできない女性が就く職業」とみなされており、ドイツだけが看護師に専門教育を与えていたからです。

戦う天使

ナイチンゲール

「天使とは、美しい花を振り撒く者ではなく、苦しみあえぐ者のために戦う者のことだ」

ナイチンゲールの名言です。そして彼女ほどこの言葉が似合う人もいないでしょう。それを象徴する3つのエピソードを紹介します。

・看護師を目指す前、幼い彼女が最初に治療したのは、子犬です。骨折をした子犬に添え木をして治療をしていると、たまたま通りかかった牧師に手伝いなさいと命令しました。

・クリミア戦争時、医療物資の不足に彼女は悩み、当時の軍医長官に詰め寄ります。彼の下には多少の在庫がありました。その箱の中に入っている医療物資を寄越しなさいという彼女を軍医長官は鼻で笑い「この箱を開ける権限があるのは委員会のみ、委員会が開かれるのはあと3週間後だ」と言い放ちます。それを聞いたナイチンゲールは、拳骨で箱の蓋を叩き割りました。そして、開いたから持っていきますと言って、医療物資を持って行きました。

・病院内でも彼女に反発する人間は多くいました。前述のとおり、看護師の地位は今のように高くもなく、女性の地位もまた然り。完全な男社会の軍人たちが、いきなり現れた女性看護師に従うはずがありません。そんな中でも彼女は屈せず、誰もしなかった「トイレ掃除」から手をつけ、病院内の衛生環境を整えていきます。彼女たちの行為は本国イギリスで認められ、ヴィクトリア女王までもが彼女に賛同します。すると、ナイチンゲールはヴィクトリア女王に手紙を送り、自分に看護させない部署があることを訴えました。ヴィクトリア女王はすぐに軍に命令書を発行させ、彼女の意見に皆を従わせました。看護のためには女王すら利用していたのです。

おわりに

ナイチンゲール

晩年のナイチンゲール

私たちの思い浮かべる天使イメージ―優しさや慈悲深さ―は彼女には存在しないようです。しかし、人を救うという点では、確かに彼女は天使なのです。

クリミア戦争終結時、兵舎病院の死亡率は2%でした。死亡率42%という、患者の半分近くが亡くなってしまう病院の患者たちを救済したのは、間違いなくナイチンゲールです。

死にゆく者の傍で泣く優しさだけではなく、死にゆく者を死なせないために一切の躊躇も容赦もなく行動する強さを備えた、まさしく戦う天使だったのです。

 

草の実堂編集部

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草の実学習塾、滝田吉一先生の弟子。
編集、校正、ライティングでは古代中国史専門。『史記』『戦国策』『正史三国志』『漢書』『資治通鑑』など古代中国の史料をもとに史実に沿った記事を執筆。

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コメント

    • 名無しさん
    • 2020年 12月 13日 12:21am

    エリザベス女王ではなくヴィクトリア女王ではないですか?

    • ご指摘ありがとうございますm(_ _)m
      修正させていただきました。
      人名間違えはとんでもないミスなので、誠に感謝ですm(_ _)m

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