
画像 : 赤ちゃん夜泣きで困ったな illstAC cc0
子供の泣き声というものは、本能的に庇護欲を刺激する。
まともな大人であれば、どこからともなく赤ん坊の泣き声が聞こえてくれば、不安を覚え、声のする方へ確かめに行こうとするだろう。
この人間の心理を逆手に取り、戦争やゲリラ戦では、録音した赤子の泣き声を流して敵をおびき寄せる戦術もあるという。
神話や伝承の世界に目を向けても、赤子の泣き声で人を誘い寄せる怪異は数多く語り継がれてきた。
今回は、そんな恐るべき怪異たちの伝承をひも解いていく。
フィリピンの伝承

画像 : チャナック 草の実堂作成(AI)
東南アジアの島国フィリピンには、チャナックと呼ばれる恐ろしい怪異の伝承がある。
その姿は赤ん坊のようで、森の中などでオギャーオギャーと泣き叫ぶ。
だがその声に誘われて近づいた人間は、鋭い爪で切り裂かれ、肉を喰い尽くされてしまうという。
チャナックはフィリピンでは古くから知られた妖怪で、さまざまな文献にその名が登場する。
スペイン人宣教師ホアキン・マルティネス・デ・スニガ(1760〜1818)が著した『フィリピン諸島誌』(原題:An historical view of the Philippine Islands)には、チャナックは「パティアナック(patianac)」という名で記されている。
パティアナックは悪意に満ちた邪霊とされ、妊婦に取り憑いて無事な出産を妨げるという。
この邪霊を追い払うため、夫は扉を閉ざして火を灯し、全裸で剣を振りかざしながら儀式を行ったとされる。
こうすることで、邪霊の魔の手から妻と子供を守れると信じられていたそうだ。
また、ミンダナオ島の少数民族マンダヤ族の伝承によれば、出産直前に亡くなった母親の胎内にいた子がチャナックに変じるとされる。
その赤子は埋葬された母の体から這い出し、「地中から生まれた」人ならざる化け物になるのだという。
現代では、チャナックは「洗礼を受ける前に亡くなった赤子の怨霊」、あるいは「堕胎された子供が復讐のために生まれ変わった姿」とも考えられている。
これは16世紀以降、フィリピンがスペインの植民地となり、土着信仰が破壊される過程でキリスト教的な解釈に書き換えられた結果とみられる。
日本の伝承

画像 : 子泣き爺 草の実堂作成(AI)
日本における「赤子のような声」の妖怪といえば、やはり子泣き爺(こなきじじい)の名を挙げずにはいられない。
漫画家の水木しげる(1922~2015年)の作品『ゲゲゲの鬼太郎』に登場し、今や誰もが知る妖怪の一つとなった子泣き爺だが、元々は徳島県の山間部で語られるのみの、非常にマイナーな妖怪だったとされる。
民俗学者の柳田國男(1875~1962年)が著した『妖怪談義』にて、子泣き爺は言及されている。
山奥で泣いている赤ん坊がいたので、哀れに思い抱きかかえたところ、不思議なことに段々と重くなってくる。
しかも赤子の顔をよく見るとおじいさんであり、驚いて手を離そうとしても、恐るべき力でしがみついて決して離れない。
これこそが妖怪・子泣き爺である。
介抱してくれた人をそのまま押し潰し、圧殺してしまうとされる。
近年の研究では、徳島における子泣き爺を「単独の固有伝承」とするのは難しく、今日まで語られてきた怪異譚は、複数の逸話が重なり合って形成されたものとみられている。
ちなみに近隣の高知県には「ごぎゃ泣き」という、子泣き爺に類似する妖怪の伝承が残る。
その姿は白い赤ん坊のようであり、道行く人の足のまとわりついて離れないという。
だが草履を脱ぐことで、この妖怪は足から離れ、何処かへ去っていくとされる。
中国の山々において
中国には『山海経』という、謎めいた地理書が伝わっている。
この書には実在するはずのない、奇々怪々な動物たちが数多く記されており、その様相はさながら妖怪図鑑のようである。
そんな山海経にも、「赤子の声を発する」奇妙な生物たちの生態が描かれているので、いくつか紹介しよう。
【鮨魚】

画像 : 鮨魚 public domain
北嶽山(恒山)という山の諸懷水という水辺には、鮨魚(けいぎょ)という魚が多く生息しているという。
魚ではあるが頭が犬のようであり、人間の赤ちゃんのような鳴き声をあげるとされる。
その肉には、精神を和らげる効能があるとのことだ。
【馬腹】

画像 : 馬腹 public domain
蔓渠山という山には、虎の体に人の顔を持った馬腹(ばふく)という猛獣が潜んでいるという。
この怪物は赤子の声で人間をおびき寄せ、捕らえて食ってしまうとされた。
【狍鴞】

画像 : 狍鴞 public domain
鈎吾山には狍鴞(ほうきょう)なる、醜悪極まりない怪物が棲むという。
その姿はこの上なく異形であり、羊の体・虎の牙・人間の顔を持つとされる。
しかも顔には目が存在せず、代わりに脇の下辺りに、眼球をギョロリと備え持つのだという。
この妖怪も例に漏れず赤子の声で鳴き、近づいてきた人間を貪り喰らうとされている。
そのおぞましき姿から、正体は邪神として有名な饕餮(とうてつ)ではないかという説が存在する。
このように、赤子の声で人を誘う怪異は、古今東西さまざまな土地で語り継がれてきた。
人の本能に訴えかける「泣き声」は、時に救いを求める声であり、時に死へ誘う罠でもあったのである。
参考 :『An historical view of the Philippine Islands』『妖怪談義』『山海経』他
文 / 草の実堂編集部
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