長髄彦(ながすねひこ)の最後を4つの歴史書からひもとく
カムヤマト イワレビコ(神倭伊波礼毘古命『古事記』・神日本磐余彦命『日本書紀』)は「辛酉年の春正月の庚辰の朔」(紀元前660年1月1日)に橿原宮にて即位し、初代の天皇、神武天皇となった。
神武天皇は天孫降臨をした天つ神(あまつかみ)ニニギ(邇邇芸命『古事記』・瓊瓊杵尊『日本書紀』)の曾孫にあたる。
長髄彦(ながすねひこ)とは神武天皇の東征に抵抗した、大和の指導者の一人で豪族の長である。
神武天皇は葦原中国(あしはらのなかつくに)を平定するため東に向かうことにしたが、長髄彦と対峙した際に、ニニギではない天つ神、ニギハヤヒ(邇芸速日命『古事記』・櫛玉饒速日命『日本書紀』)も東に天降っており、長髄彦が仕えていたことが明らかになった。
この記事では、長髄彦が自らが仕えていた天つ神、ニギハヤヒに最後に討たれてしまう場面を調べて、比べてみた。
『古事記』でみる長髄彦の最後
『古事記』は天武天皇の勅命により、稗田阿礼(ひえだのあれ)が憶した内容を太安万侶(おおのやすまろ)が編纂し、712年(和銅5)に元明天皇に献上された。
“こうして後に登美毗古(長髄彦)を討とうとする時にお歌いになった……(略)
そうこうして、邇芸速日命が参って天つ神の御子に申し上げる。
「天つ神の御子が天降りなさったと聞いたので、後を追って降って参りました」
天津瑞を献上してお仕え申し上げる。この邇芸速日命は、登美毗古の妹の登美夜毗売をめとって宇摩志麻遅(うましまじ)命が生まれた。”
古事記では、ニギハヤヒは長髄彦が殺されてから姿を現わして、「後を追って天降った」と言っている。
『日本書紀』でみる長髄彦の最後
『日本書紀』は天武天皇の勅命により、舎人親王(とねりしんのう)が中心となって編纂し、720年(養老4)に元正天皇に献上された。
今年2020年は、成立1300年の節目にあたる。
“12月14日、皇軍はついに長髄彦を追討した。……(略)
ときに長髄彦は使いを送って、神武天皇に
「昔、天神の御子が天磐船に乗って天から降ってこられた。お名前を櫛玉饒速日命とおっしゃる。私の妹の三炊屋媛をめとって子をもうけられた。名前を可美真手(うましまで)命と申し上げる。以降、私は饒速日命を主君としてお仕え申し上げている。その天神の御子は二柱いらっしゃるのか。どんな理由で、さらに天神の子と称して人の国を強奪されるのか。私は推しはかっても信用できない。」
と申し上げる。天皇がおっしゃる。
「天神の子はたくさんいる。これが本当に天神の子ならば、必ずしるしのものがある。示しなさい。」
長髄彦は即座に饒速日命の天羽羽矢(あまのははや)を一隻と、歩靫(かちゆき)を持ってきて天皇にお示し申し上げる。天皇、ご覧になって
「本物である」
とおっしゃり、戻って所持される天羽羽矢を一隻と歩靫を長髄彦にお見せになる。
長髄彦はそのしるしを見て、ますます畏れかしこまる。しかし、兵器を構えていて、その勢いを中途半端に抑えることはできない。間違った考え方をかたくなに守り、改める意志がない。
饒速日命は、天神が深く心配されるのは天孫のことだけであることを知っていた。また、長髄彦の人となりは人に従わずねじれている性分であり、神と人とはまったく違うのだということを教えてもわかりそうにないので殺した。
彼の部下たちを率いて帰順した。天皇は饒速日命は天から降ったということを承知なさった。そして、忠誠の心を示したので、褒めて寵愛なさる。これが物部氏の遠い祖先である。”
天神であるニギハヤヒに仕えている長髄彦は、天神を名乗る不審者(神武天皇)を簡単に信用しなかった。
部族長として自分の国を守るために思慮深くあるのは当然だと思うのだが、主君のはずのニギハヤヒに殺されてしまった。
なんだか理不尽である。
『古語拾遺』でみる長髄彦の最後
ほかの歴史書も比べてみる。
『古語拾遺』(こごしゅうい)は平城天皇の召聞に対し、斎部広成(いんべのひろなり)が編纂して807年(大同2)に献上した。
平安時代の神道資料で、祭祀に携わる斎部氏の伝承をまとめたものなので、祭祀の記述が主である。
“神武天皇が東へ討伐なさる年におよび、……(略)
物部氏の遠い祖先の饒速日命は長髄彦を殺して民衆を率いて官軍に帰順した。忠誠の結果、ことさらにご寵愛をいただく。”
“饒速日命は宮廷内の物部氏を率いて、大嘗祭用の矛と盾を造り備える。”
こちらでも長髄彦はニギハヤヒに殺されたと書かれており、ニギハヤヒの神武天皇即位の大嘗祭での役目も書かれている。
祭祀が中臣氏に偏重していることを忸怩たる思いで見ていた斎部広成だから、ここぞとくわしく祭祀を記述するのは当然か。
『先代旧事本紀』でみる長髄彦の最後
ニギハヤヒといえば、『先代旧事本紀』(せんだいくじほんき)を外すわけにはいかない。
成立は平安時代の初期、物部氏の誰かによって編纂されたと考えられている。巻第3「天神本紀」と、巻第5「天孫本紀」に登場する。
長いので訳は省略する。
ニギハヤヒは、アマテラスの子のオシホミミと、タカミムスヒの娘のヨロズハタヒメの間に長男として生まれた。父の代わりに葦原中国を治すべく、アマテラスから天璽瑞宝十種(あめのしるしみつのたからとくさ)を授かり、天磐船に乗って天降った。
ニギハヤヒには、天上では天道日女(あめのみちひめ)命との間にアメノカゴヤマ、地上では長髄彦の妹の御炊屋(みかしきや)姫との間に宇摩志麻治(うましまじ)命という二柱の息子がいる。アメノカゴヤマは父に随伴して天降り、熊野にて高倉下(たかくらじ)命と呼ばれた。
宇摩志麻治命の誕生前にニギハヤヒが亡くなってしまい、アマテラスはオシホミミとヨロズハタヒメの間の次男、ニニギを天降らせた。
イワレビコ(神武天皇)の東征は『古事記』『日本書紀』と同じだが、熊野で悪神の吐く毒で苦しむイワレビコを、高倉下命が神剣の韴霊(ふつのみたま)を献上して助けたことと、宇摩志麻治命が自分に仕える長髄彦を殺したことを記している。
帰順に対し、イワレビコは宇摩志麻治命に神剣を授け、宇摩志麻治命はニギハヤヒが授かった天璽瑞宝十種を献上した。
天孫降臨はニニギではなく、ニギハヤヒが先としっかり書かれている。長髄彦の「天つ神はなぜ二柱いらっしゃるのか?」の疑問は解消している。
にもかかわらず戦闘状態に入ったので、宇摩志麻治命は伯父を謀殺し、イワレビコは「長髄彦は気がふれて暴れる性分で、軍勢も強かった。よくぞ舅に従わなかった」と讃えている。
長髄彦はニギハヤヒが死んだからといって、イワレビコに忠誠を誓うわけにはいかなかったのだろう。
「忠臣は二君に仕えず!」を地で行ったのに、結局は平定の邪魔として甥に殺されてしまった。やはり、理不尽だ。
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