古代中国の刑罰制度

画像 : 伝説の夏王朝の始祖・大禹(だいう)public domain
古代中国における法は、国家の統治を支える根幹として発達した。
為政者の徳を掲げつつも、実際の運用では「刑によって民を治める」姿勢が貫かれていた。
最も古い刑罰の体系は、伝承上では夏王朝のころにさかのぼるとされる。
後世の記録には、この時代にすでに「五刑」という考え方が存在していたと記されており、これがのちの刑法制度の原型になったと伝えられている。
五刑とは、「墨・劓・刖・宮・大辟」の五つの刑である。
すなわち、顔に刺青を入れる墨刑(ぼっけい)、鼻を削ぐ劓刑(ぎけい)、足を切る刖刑(げっけい)、去勢の宮刑(きゅうけい)、死刑にあたる大辟刑(たいへきけい)のことだ。
これらはいずれも肉体に直接損傷を与える刑であり、当時の社会では「身体に刻まれた罰」が最も強い威嚇になると考えられていた。
秦の時代には法家思想が国家の根本とされ、刑罰は極めて厳格に運用された。罪を犯せば情状酌量の余地はほとんどなく、国家秩序の維持が何よりも優先された。
漢代に入ると、法家の厳罰主義を基盤としつつも、儒教思想が国家理念として採用されるようになる。
武帝の時代には「罷黜百家,独尊儒術」が掲げられ、道徳と秩序を重んじる体制が確立した。
儒教の価値観は社会の隅々まで浸透し、男女の役割は明確に分けられ、男は家を外で支え、女は家の内を守るものとされた。
したがって同じ罪を犯しても、男は「国家への反逆」として裁かれ、女は「家の恥」として処罰される傾向が強まった。
女性の罪は肉体の罰よりも、名誉を汚すことによる「戒め」という形に変化していくこととなる。
苦痛よりも屈辱を重んじた女囚人の取り調べ
古代の尋問では、口供(自白)を得ることが裁判の要とされ、証拠が揃っていても犯人が認めなければ有罪とされなかった。
そのため尋問の手段として、いくつかの刑罰が使われた。
女囚の場合、屈辱を与えることで口を割らせることが多く、これが屈辱的な取り調べ文化を生んだ。
史料に見られる女囚向けの刑罰には、次のようなものがある。
1 刑舂(けいしょう)
顔に刺青や烙印を施したうえで辺境に流し、穀物を搗かせる刑。
肉体労働による懲罰と、社会からの追放を同時に意味した。
2 拶刑(さんけい)

画像 : 拶刑(さんけい)の銅版画(1801年)『中国刑罰図説(The Punishments of China)』より Public Domain
木製の拷具で指を締めつける刑で、耐えがたい痛みを伴った。
唐以降、女囚への取り調べに広く用いられた。
3 杖刑(じょうけい)

画像:清代の杖刑の再現図(Research Institute for Oriental Cultures, 2012)
板で尻を叩く刑。
女性の場合は衣を脱がされて行われることが多く、肉体的苦痛よりも屈辱の意味が強かった。
4 赐死(しし)
毒酒などを与え、自ら命を絶たせる刑。
皇族や高官の妻など、身分の高い女性に適用されることが多かった。
5 幽閉(ゆうへい)

画像 : 冷宮の生活 イメージ 草の実堂作成
女性に対する「宮刑」に相当する刑で、監禁や身体的損傷を伴う場合もあり、詳細は時代によって異なる。
男の罪が国家秩序を乱すものとされたのに対し、女の罪は家門の恥とされた。
また、妊婦に対しては一時的な猶予が与えられた。
出産から百日を経て刑を執行するという規定があり、これは唐代の法典『唐律疏議』や、清代の『大清律例』にも明記されている。
一見すると人道的に見えるが、実際は「百日後に刑を加える」というだけの話で、救済ではなかった。
産後、身体が回復しないうちに再び取り調べが行われ、拷問の苦痛を味わう者も多かったという。
美貌ゆえの痛ましい物語

画像 : 『子不语』(しふご)第1巻より(清・袁枚著)public domain
清代に記された志怪集『子不语(しふご)』には、「全姑(ぜんこ)案」と呼ばれる痛ましい記録がある。
『子不语』は、文人・袁枚(えんばい)が、世に伝わる奇談や実話をもとに編んだ志怪小説集で、当時の社会を映し出している。
この「全姑案」も、単なる創作ではなく、封建社会における女性の受難と権力の理不尽さを描いた寓話的記録として伝えられている。
物語の舞台は、地方官の裁きが絶対とされた封建社会。
主人公の全姑(ぜんこ)は、肌が白く姿の美しい19歳の娘であった。
隣家の青年・陳生(ちんせい)と互いに好意を抱き、密かに想いを交わしていた。

画像 : 全姑と陳生 イメージ 草の実堂作成(AI)
ある日、二人の逢瀬を地元の無頼たちが目撃した。
当時、通姦は女性の「貞節」を汚す最も恥ずべき罪とされていた。
陳家は裕福であったため、無頼たちはこれを口実に金をゆすり取ろうとし、陳生は百金を渡して見逃してもらおうとした。
ところが、そのやり取りが県の役人の耳に入り、役人たちも利を得ようと目論んで二人を捕らえ、「通姦」の罪で告発した。
通姦は取り調べの際に、杖刑が科されることが多かった。
まず陳生が杖刑を受け、全姑は泣き叫びながらその身を覆い、代わりに打たれようとした。
だがその行為がかえって官吏の怒りを買い、「女の身で男をかばうとは無礼」として、全姑にも同じ刑が下された。
彼女は衆人の前で、尻を打たれるという屈辱を受けたのである。

画像 : 杖刑を受ける全姑 イメージ 草の実堂作成(AI)
しかし、刑を執行するよう命じられた二人の差役(下級役人)は、全姑のか弱い様子にあわれみを覚えたうえ、陳生から密かに金を受け取っていたこともあり、実際には軽く叩くだけで済ませた。
だが、それが露見すると、県令はいよいよ怒りを募らせた。
「情に流されて法を曲げるとは何事か」と叱責し、全姑の髪を剃り、衣を剥ぎ、群衆に晒したうえで、官の手で奴婢として売り払った。
その後、陳生は彼女を買い戻し、妻として迎えたが、二人の平穏は長く続かなかった。
やがて再び役人に呼び出され、同じ「通姦」の罪で杖刑を受け、陳生は数か月後に命を落とし、全姑も他家の妾として売られていった。
この事件の目撃者であった劉孝廉(りゅうこうれん)という義士は、県令を厳しく非難している。
「一人の女を辱めてまで名声を保つとは、為政者の恥である」と断じ、県令との交わりを絶った。
その後、暴虐な県令は背中に奇病を発し、まるで打たれた臀部のように爛れて死んだと記されている。
この「全姑案」は、単なる怪異譚ではない。
ひとりの娘の悲劇にとどまらず、「法」と「道徳」という名のもとに女性が犠牲となった封建社会そのものの歪みを映し出しているといえるだろう。
参考 : 袁枚『子不语』巻十六「全姑」『唐律疏議』『大清律例』他
文 / 草の実堂編集部
























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