兄弟を殺した唐の名君 太宗
唐王朝の第2代皇帝・太宗(598年〜649年)は、中国史上でも一、二を争う名君として知られます。
しかし、彼はもともと皇太子ではありませんでした。皇太子であった兄と、皇太子に加勢していた弟を殺し、簒奪する形で皇太子ひいては皇帝の座に就いたのです。
太宗が兄弟を殺害した事件は、城の北側に位置する玄武門で起こった事から「玄武門の変」と呼ばれます。なぜ苦楽を共にした兄弟の殺すことになったのか、その経緯について調べてみました。
戦乱の世の再来
6世紀末、隋朝は数百年に渡って分裂状態にあった中国大陸の情勢にピリオドを打ち、中華統一を果たしていました。
しかし第2代皇帝の時代、度重なる失政による反乱が各地で続発。この混乱に乗じて皇帝の従兄弟・李淵は、息子と共に挙兵し、数か月後には首都・長安を制圧します。
そして翌年、李淵は皇帝に即位し、新たに唐を建国しました。
中国統一を果たした隋が滅亡しことで、国内は唐以外にも多数の政権が乱立し、再び群雄割拠の様相を呈します。また、国外にも侵攻の機会を窺う異民族勢力がおり、緊張状態が続いていました。
そのため、唐が真っ先に取り掛かった課題は敵対勢力の平定でした。
英雄となった次男 世民
李淵には、夫人との間に4人の息子がいました。長男の建成、次男の世民(後の太宗)、三男の玄覇、四男の元吉です。
玄覇は李淵が皇帝に即位する前に亡くなっていたため、政権の樹立には残った3人の息子たちが加わりました。
唐建国後の中国再統一の戦において、兄弟の中で目覚ましい活躍を見せたのが次男の世民でした。
世民は元来武勇に秀でており、10代の頃から武将として手柄を立てていました。当時もまだ二十代の若者でしたが、軍を率いて大陸各地を転戦し、次々と勝利を収めます。
中でも、第二の都市・洛陽を支配していた王世充、河北を治め中央へ勢力を拡げようとする竇建徳、この二大勢力の平定に成功したことは、高く評価されました。
李淵は世民の功績の高さを鑑み、特別に作った「天策上将」という地位を李世民に与えました。
これは王公より上位に位置する名誉的称号であり、皇太子の下あるいはそれに並び得るほどのものでした。さらに弘義宮という東宮に匹敵するような宮殿が造営され、その名声は確固たるものとなっていきます。
対立する長男
これに焦りを募らせたのが、長男・建成でした。
建成は、父の李淵が皇帝に即位すると同時に、皇太子に立っていました。皇太子は後継者として皇帝を補佐する必要があり、王宮のある首都から長く離れることは難しい立場です。
隋朝討伐戦では活躍した建世ですが、立太子後は対外戦への参加は出来ず、目立った功績を挙げられずにいました。
弟の世民が活躍する程に「皇太子の立場が脅かされるのではないか」と不安を感じ、本人も側近たちも警戒感を強めていきます。
そんな時に世民が「天策上将」の地位に就いたとあって、兄弟間の軋轢は増すばかりでした。
漁夫の利を狙う四男
長男と次男の不仲が囁かれる中、四男の元吉が皇太子側につきます。
元吉は唐建国時はまだ14〜15歳と若く、すでに成人していた2人の兄に比べ実績が乏しい状態です。しかも建国の翌年に、敵の侵略を受けて任地を失陥。このしくじりを取り返すためにも、大きな功績が必要でした。
数年後、元吉は世民とともに王世充の討伐に赴き、敵将を挙げる活躍を見せました。しかし、所詮は世民が主導して行われたもの。元吉の功績として評価されませんでした。元吉自身も勝利は世民のおかげであったことを理解しており、能力は世民に及ばないと痛感します。
「己の存在感を示すには、まず世民の勢いを抑える必要がある」
と考えた元吉は、皇太子の立場を危ぶむ長兄に近づき、世民の追い落としを画策します。そして、隙あらば建成も蹴落として次の皇帝に、との野心を秘めていました。
こうして、兄弟三つ巴の構図が出来上がっていきました。
子を掌握できぬ父
兄弟の対立関係をより一層煽ったのが、父帝・李淵の優柔不断さでした。
そもそも李淵は隋朝討伐の挙兵の際、「成功の暁には、汝を太子とする」という申し出を世民にしていました。世民がその申し出を辞退したこと、慣例に則り長幼の序を重んじたことで、結局は建成が皇太子に立ちます。
これで後継者問題は丸く収まるかと思われましたが、建国後、李淵は世民の活躍に比例して次から次へと地位を上げていき、時には立太子の話までも匂わせます。先にも述べているように、皇太子を含め周囲の者は「皇帝は実力のある次男を推しているのではないか」と勘繰ります。
かと言って、建成を廃嫡する素振りもなく、建成の進言に応じて世民の側近たちを左遷するなど、どっち付かずの対応に終始していました。
皇帝の煮え切らない態度に、息子たちは互いの暗殺を計画し始めます。そして、皇帝にそれを止める力はありませんでした。
玄武門の変
互いに命を狙い続けて数年、ついに事態が動きます。
626年6月、皇帝の命により建成と元吉は王宮へ参内します。建成と元吉は、世民側の動きを警戒し、手勢を率いて向かいますが、宮殿へ入城できるのは一部の者のみ。仕方なく少ない警備兵のみを従えます。
玄武門へ進み入ると、そこには武装した世民とその部下、世民に買収されていた門の守備隊が待ち構えていました。実は皇帝が参内を命じたのは、皇太子派を誘い出すための世民の策略だったのです。
奇襲にあった建成たちは、多勢に無勢。警備兵共々全滅し、あえなく敗北します。建成は戦いの最中、世民の手によって射殺されました。
玄武門の変からわずか3日後、世民は皇太子となると、2か月後には李淵から譲位され、皇帝に即位します。まだ数えで29歳という若さでした。一説には、李淵を幽閉して退位を迫ったとも言われています。
建成と元吉にはそれぞれ5人の息子がいましたが、世民の命令で事件に連座して全員処刑されました。さらに、元吉の妻を後宮に召し上げ、側室としました。
後継者問題の再来
強引な手法で皇帝となった世民こと太宗ですが、幅広く人材を登用するとともに、優れた政治手腕を発揮して唐の礎を築きました。その治世は「貞観の治」と呼ばれ、後世まで語り継がれています。
しかし後継者問題に関しては、先帝と同じ失敗を犯してします。
太宗は皇后との間に3人の男子(長男、四男、九男)を設けています。
当初皇太子に指名されたのは、やはり長男でした。しかし、太宗はより優秀な四男を寵愛したことで、皇太子と四男は反目していきます。2人の確執は激しさを増し、遂には暗殺未遂事件が起こります。
事態を憂慮した太宗は、側近と相談した上で、皇太子を廃位、四男も不適格だとして、喧嘩両成敗の沙汰を下します。新たに皇太子に指名されたのは、九男(後の高宗)でした。
ただ、新たな皇太子は優しいけれど凡庸で、太宗が遺した遺言も「長孫氏(皇后の兄で政府高官)に従うように」という情け無いものでした。
おわりに
玄武門の変は、数年にわたって起きた数ある暗殺計画の一つに過ぎません。玄武門の変が失敗に終わっていれば、また別の計画が立てられ、命を取り合う日々に戻ったことでしょう。
そして、兄弟が殺し合いをせざるを得なかった背景には、父・高祖李淵の不甲斐なさが多分に影響していました。太宗が後継者問題を無理矢理にでも収めたように、高祖も兄弟の確執を鎮静化させることが出来れば、兄弟殺しの汚名を着ることはなかったかもしれません。
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