中国大陸の誇る世界遺産
万里の長城とは、中華人民共和国に存在する城壁の遺跡である。
ユネスコの世界遺産に登録されており、2007年には新・世界の七不思議の一つに選ばれている。
現存する人工壁の延長は6,259.6Kmである。
北方の異民族が侵攻してくるのを追撃するために、秦代の紀元前214年に始皇帝によって建設されたと一般には考えられているが、実際には幾つかの王朝により修築されている。
現存の「万里の長城」は明代(1368年~1644年)に作られたものである。この現存する明代の長城線は秦代に比べて遥かに南へ後退している。
農耕民族と遊牧民族の境界線
秦・漢時代の長城は草原の中に建っていることが多く、これは両王朝が遊牧民族に対し優位に立ち、勢力圏を可能な限り北方へ広げようとしたためである。
それに対し、明代の長城は防衛を目的としたことから、首都北京近くに建設された。
初期の建造は春秋時代にまで遡り、各王朝がそれぞれの目的で建築した長城をつなげて「万里の長城」と呼ばれる一体化した大長城に再構築したのが秦の始皇帝である。
始皇帝は中華統一後に、遊牧民族に備えるために北に作られていた三カ国の長城を修復・延長し繋げて大長城とした。
この時代の長城は馬や人が乗り越えられなければ良いといった程度のもので、場所にもよるがさほど高くない。高さ約2mの場所もあるようだ。
武帝の時代
始皇帝の死後は前漢にその建設は引き継がれたが、修復と維持のみで延長工事は行われなかった。
この状況が変化したのは前漢の第七代皇帝・武帝の時代である。武帝は異民族の積極攻勢に打って出て領土を大きく拡張し、その新領土を守る形で長城を延長していった。
武帝の時代は長城の長さは20000里(7930km)に達した。
この漢の長城は全ての長城の中でも最も長く、西は現在の甘粛省西端にある玉門関から東は朝鮮半島北部まで達していた。
長城の放棄、南北朝時代の復活
しかしこの長城も前漢の末期の混乱ので大打撃を受け、25年に後漢が建国された頃には、かなり荒廃した状態であった。
その後の三国時代や五胡十六国時代には北方異民族の力が強くなり侵略が繰り返されたが、当時の王朝にそれを修復する力はなく長城防衛は放置されたままになった。
唐王朝から宋王朝に至るまで長城防衛は放棄され、長城はしばらくの間 中国史から姿を消すことになる。
長城の復活
長城が復活を遂げたのは金の時代であった。
金は北方にからの襲撃を恐れて国境の線に沿って長大な空掘を掘り、その内側に掘った土を盛り上げて城を築いた。ここで実質的に長城防衛が復活した。
ところが金の勢力が衰えていくと、モンゴル帝国によって長城は難なく突破されてしまった。その後、金に代わって中国を支配したモンゴル人の元は長城を築くことはなかった。
その後、明の時代に長城防衛が復活し、第三代永楽帝により首都が北京に移り、元の再来に備え北方国境全域において長城を建設することとなった。その後、長城での防御が必要となったことから、レンガによる堅固な改築が進められた。
西は甘粛省から河西回廊の諸都市を守る形で東へ走り、銀川盆地の北側から黄土高地を通って山海関に達する長大な長城が完成した。その後、長城は一本だけではなく、長城主線の補助として二本目の長城が築かれ守りが固められていった。
このように時代の流れと共に、長城は荒廃と改修を繰り返していったのである。
色々な場所に建っている万里の長城
その長大な長さから今でも政府は全ての修復を完了してない。それらは「野長城」と呼ばれ、野放しにされている部分も多いのである。
そして近年、その歴史的価値を理解していないかのような出来事が起こった。長城の一画が修復作業の結果、なんとコンクリートで真っ平に塗り固められてしまったのだ。
最近投稿された画像を見てみると、修復前には城壁の一部が崩れかけて草木が生えて凸凹した歩道があったところに、コンクリートでふたをしたような平らな道が目の届く限り延々と続いている。
SNS上では批判が殺到し「こんなことなら、いっそ爆破した方がマシだ」などどいう声も上がった。
万里の長城をめぐっては、明代に建設された部分の約三割が人為的な破壊により消失したと報じられている。
中国の歴史と共に歩んできた「万里の長城」は、かつては「宇宙から唯一肉眼で確認できる人工建造物」と言われた。
建築の始まりは紀元前まで遡り、そこから多くの王朝が興っては消えていった。万里の長城はまさに中国の歴史を刻んだ建物だということだ。
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