前漢の初代皇帝・劉邦は、前漢を興した人気のある人物である。
低い庶民の出で、若い頃はろくに読み書きもできず、酒と女好きで遊んでばかりの劉邦だったが、多くの人に愛され人間性一つで身を興していった。
後の最大のライバルとなる戦の天才・項羽たちと共に、始皇帝が築き上げた秦を滅ぼし、その後は項羽と戦い何度も窮地になるも最終的には勝利し、後に400年続いた王朝・漢の初代皇帝となったのである。
庶民の出から身を興したまさに元祖的な人物であり「漢民族」という言葉が今も使われているほど、人気の英雄である。
項羽は高い身分の生まれでエリートであり、若く頭脳明晰で体力にも恵まれ、戦では最後の戦い以外で一度も負けたことのない天才であった。対する劉邦は項羽より一回り以上年上で特に秀でた能力もなく、唯一優れている面は「人を惹き付ける人間性」のみであった。つまりは人の使い方である。
劉邦は項羽に何度も死の直前まで追い詰められたが、多くの有能な部下たちに助けられながら、最終的には勝利したのである。
こういった経歴から、劉邦は「義に熱く仁愛に溢れた素晴らしい人物」というイメージをつい抱きがちだが、実は全然そんなことはないのである。どちらかというと項羽の方がそのイメージに近かったかもしれない。
今回は、劉邦の残虐性について焦点を当ててみたいと思う。
息子と娘を馬車から投げ捨てる
劉邦の残虐性を表す最も顕著な例が、彭城の戦いでのエピソードである。
彭城の戦いとは、項羽と劉邦の天下争奪戦における大きな転機点となる戦いである。
秦を倒した後、劉邦は項羽によって僻地の漢中に飛ばされてしまった。しかし劉邦は項羽の留守の隙をついて諸侯と連合し、項羽の本拠である楚国の彭城を制圧したのである。連合軍の数はなんと56万人であった。
この知らせを聞いた項羽は激怒し、わずか3万人の精鋭軍で彭城に帰還し連合軍を急襲する。56万 vs 3万という圧倒的な兵数の差であったにも関わらず、劉邦たちの連合軍は大敗。いかに項羽率いる精鋭軍が強かったかが分かる戦いである。
ちなみに総大将の劉邦はこの時、誰よりも早くまっさきに逃げ出している。
息子と娘の2人を馬車に乗せ、部下の夏侯嬰(かこうえい)に馬車を操らせ、軍全体のことなど投げ出して命からがら逃亡したのである。
しかし項羽軍の精鋭騎馬軍はその動きをすぐに察知し、劉邦を追いかける。
騎馬と馬車では当然騎馬の方が早い。劉邦はだんだん追いつかれる。
するとなんと劉邦は、馬車を軽くするために自分の息子と娘を馬車から投げ捨てたのである。しかもその息子は後に2代皇帝となる劉盈(りゅうえい)であった。
中国は儒教の影響で子よりも親に重きを置く思想が土台としてあったし、「古代人は現代人とは感覚が違う」という受け止め方もできるが、夏侯嬰が馬車から降りて子供たちを拾い上げたという記述があることから、やはり劉邦の感覚は当時でもかなり異常であることが分かる。
しかもこれを3度も繰り返している。劉邦は3度子供を捨て、夏侯嬰が3度拾い上げているのである。これは「史記」に記述されている。
命の恩人を斬首
ここまでは結構有名なエピソードであるが、実はまだエピソードがある。
最終的には劉邦は項羽軍に追いつかれてしまうのだが、そこで劉邦は項羽軍の追っ手であった丁固(ていこう)に対して
「我らは共に好漢である。どうして互いに傷つけ合う必要があるだろうか」
と、説き伏せてなんとか見逃してもらったのである。つまり丁固は劉邦の大恩人である。
その後、劉邦が勝利した後に丁固は劉邦の元に馳せ参じたのだが、なんと劉邦は
「丁公は項羽の臣下でありながら不忠を行った。項羽が天下を失ったのはすなわち丁公によるものである」
と、なんと斬首してしまったのである。
丁固の判断一つで天下が変わったとも言えるし、劉邦からの多大な恩賞や待遇を期待して丁固は馳せ参じたはずである。
恩も情も義もへったくれもない。
功臣たちを粛清
劉邦は前述したように、優秀な配下や味方してくれた諸侯たちのおかげで天下を取れたわけである。
特に漢の三傑の一人である大将軍・韓信の働きは大きく、韓信のおかげで天下が取れたと言っても過言ではない。戦の天才・項羽を倒せたのも、同じく戦の天才・韓信がいたからである。
しかしそんな韓信も項羽の死から6年後、謀反の疑いで処刑されている。しかも三族皆殺しである。
劉邦と韓信は、かつては共に人物の品定めを頻繁に行うなど関係は良好で、一度謀反の疑いがあった際にもその時は命までは取らなかったことから、劉邦が韓信を気に入っていたことは間違いなさそうだが、最終的には三族皆殺しである。
劉邦に協力した諸侯である彭越(ほうえつ)や英布(えいふ)も粛清されている。彭越に関しては劉邦の妻・呂后の讒言による影響が大きいが、最終的には殺された後に塩漬けにされて、その肉は群臣に配られるという結果になっている。
三傑の張良や蕭何(しょうか)は何とか難を逃れているが、彼らでさえギリギリであった。
張良は早い段階で大きな恩賞や領地などは辞退して野心のないことを示し、呂后との関係もうまくやりつつ隠棲し難を逃れた。
蕭何も後に劉邦から疑われて粛清されそうになったが、あえて悪政を行って自身の評判を落としたり、財産を寄付したりすることで何とか粛清を逃れた。しかしその蕭何でさえ一時期投獄までされており、ギリギリであった。
劉邦の旗揚げ時から一緒だった樊噲(はんかい)ですら疑われ、陳平の機転によって殺されはしなかったものの捕えられている。
同じく劉邦と同郷で親友と言われた盧綰(ろわん)も謀反を疑われ、討伐されそうになっている。劉邦の死後、盧綰は匈奴の元へ亡命し一年後に死去している。
最後に
天下を取ったからおかしくなったのか、元々おかしかったから天下を取れたのか定かではないが、行動だけを見ると劉邦は仁愛性と残虐性の両極端を持っていた人物だったことがわかる。
しかしこれは劉邦に限ったことではなく、歴史を紐解くと古今東西天下人となる人物は、往々にしてこの極端な性質を持ち合わせているように思える。
日本でも同じく「人たらし」として天下統一した豊臣秀吉にもこの性質が見える。
天下とはいつの世も善悪定まらぬものである。
参考文献 : 史記
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