伝説になった男
秦の始皇帝は中華統一を成し遂げると、今度は不老不死となるべく仙人やら方術士やらを自称する胡散臭い連中を搔き集めるのですが、その中で異彩を放ったのが今回紹介する徐福(じょふく)です。
この徐福なのですが、素性に関しては不明なこと多いにも関わらず、私たちが暮らす日本にも伝説を残した謎の人物です。
詐欺師であったのか、それとも本当に仙人であったのか…。果たして彼はどこに行ってしまったのでしょうか?
始皇帝に招かれる
徐福は斉国の琅邪郡(ろうやぐん)の出身と言われており、別名を徐市(じょふつ)と言います。
彼の生涯については、ほとんど記述がないので詳しいことは分からないのですが、斉の国の仙人の下で方術(※仙術や占い術など)の修行を行っていたとされています。
この時、春秋戦国時代を制した秦の始皇帝は神仙思想に興味を抱き、どうすれば不老不死になれるのかを真剣に考えていました。
そんな中、徐福が伝説の蓬莱山(ほうらいさん)について詳しいとの噂を聞き、始皇帝はさっそく徐福を都へ呼び寄せます。
蓬莱山とは?
仙人たちが住むとされる秘境とされています。
始皇帝は天下統一後、斉(※現在の山東省あたり)の琅邪郡を訪れ、初めて海を見たのですが、この時に蜃気楼が発生し、反射した風景を蓬莱山と勘違いしてしまったといいます。
ちなみに現在もこの地は蜃気楼の名所として賑わっています。
幻の蓬莱山
徐福を咸陽(かんよう)に招いた始皇帝は「蓬莱・方丈・瀛州(えいしゅう)」と呼ばれる東方の三神山について尋ねます。
これに対し徐福は琅邪郡で始皇帝が見た島こそが「蓬莱山」であると発言し、始皇帝を喜ばせます。さらに、
蓬莱山には不老不死の薬があります。もし、陛下がお望みなら私が買い求めてまいります。
と発言したので、さっそく始皇帝は徐福に蓬莱山へ向かうよう命じます。
出航
始皇帝の命を受けた徐福は仙人への貢物として莫大な財宝を要求します。歴史書「史記」によれば
3,000人の童男童女(若い男女)と百工(多くの技術者)を従え、多くの金銀財産と五穀の種を積載した
と書かれています。
これで不老不死になれると期待する始皇帝でしたが、徐福が再び始皇帝の下を訪れることはありませんでした。
結局、始皇帝は莫大な財宝と人材を失っただけとなり、大いに怒った始皇帝はこの事件以後、いい加減な方術士たちは死罪にするという対応をみせます。
徐福はどこへ行ったのか?
さて、蓬莱山に向け出港し、姿を暗ました徐福はどこへ行ったのかと言うと、朝鮮半島や琉球、台湾、日本など諸説あり、これもはっきりと分かっていません。
「史記」によれば「平原広沢(広い平野と湿地)を得て王となり、秦には戻らなかった」との記述があるので、個人的には莫大な財と人材を元手にどこかで王を名乗っていてもおかしくはないと考えます。
徐福と日本
徐福に関する伝説は日本にたくさんあるのですが、その一部をご紹介します。
まず、徐福が降り立った地として有力なのが、現在の三重県熊野市波田巣町です。
この地には徐福を祭った徐福ノ宮(じょふくのみや)と呼ばれる神社が存在しており、彼が持参したとされる「すり鉢」が御神体として祭られています。
また、この徐福ノ宮にはこんな逸話があります
徐福の一行は数十艘で出航したが、途中で台風に遭い、徐福らを乗せた船だけが波田須に流れ着いた。当時の波田須には3軒しか家がなかったが、この3軒は徐福らの世話を行った。
当地に上陸した徐福は中国への帰国を諦め、「秦」に由来する「ハタ」と読む姓(波田、羽田、畑など)を名乗り、窯を作り焼き物の作り方を村人に教えた。
さらに土木事業、農耕、捕鯨、医薬品、製鉄など、この地域になかった文明を次々と伝授した。このため住民は、徐福を神として崇めた。 出典:wikipedia
実際、この波田巣町からは秦の貨幣である半両銭が出土しており、徐福がこの地に辿り着いた可能性は高いと思われます。
他にも、徐福が富士山を蓬莱山として移り住んだ話や、日本各地を巡って薬草を広めた話が残っているので、やはり徐福は日本に来ていたのでしょうか?
日本以外でも徐福に関する証拠が出れば、また違った考察ができるのですが、真相は未だに闇の中です。
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