秦の礎を築いた商鞅
漫画『キングダム』を原作にした実写版映画『キングダム 運命の光』の第3弾が、来月(7月)28日に上映予定です。
『キングダム』の時代設定である「春秋・戦国時代」は、実力主義の時代です。各国は富国強兵のために、優秀な人材の確保に尽力しました。
詳しくは以前の記事「漫画『キングダム』で中国史を学ぼう! 春秋・戦国時代のリアルな世界とは?」を参照していただけると、幸いです。
そのなかでも積極的な人材登用によって大成功したのが、漫画『キングダム』において主役の国でもある秦です。
そこで今回の記事では、秦が繁栄する礎を築いた人物・商鞅(しょうおう)について紹介します。
彼の改革は「商法の変法」と呼ばれ、もし成功しなければ、秦は中華統一ができなかったかもしれません。しかし商鞅の改革はとても極端だったため、多くの人々が苦しみました。
その具体的な内容についても詳しく解説します。
他国出身者を大抜擢した秦王・孝公
商鞅を採用したのは、当時の秦王だった孝公(こうこう)です。『キングダム』に登場する嬴政(のちの始皇帝)の約100年前に就任しました。
他国からも人材を募集していた秦の孝公は、売り込みにやってきた商鞅を高く評価します。現在でいう総理大臣のようなポジションに、商鞅をいきなり大抜擢したのです。
この人事には秦の貴族も驚きましたが、孝公の決定ならば従うしかありません。衛国という他国の出身だった商鞅は、周囲の人間が好意的に思っていないことを理解していました。
反感を持つ貴族もいますし、一般の民衆は商鞅など知らないため、改革どころから商鞅の命令に従うのかも分かりません。
先手を打つ商鞅
まず商鞅は先手を打ちます。彼は民衆が集まる市場の南門に材木を一本置き、このような看板を立てました。
「この材木を市場の北門へ移動させた者に賞金を与える。大臣・商鞅」
この看板を見た民衆はとまどい、何日か経過しても誰も動かそうとしません。そこで商鞅は賞金を5倍の金額にしました。すると、やっと1人の男が材木を移動させたのです。
周りの民衆が注目するなか、商鞅は約束通り賞金を与えました。
この出来事によって、またたく間に商鞅の名は国内に知れ渡ります。秦の貴族たちも黙っているしかありません。
恐怖政治、始まる
次に商鞅は「変法」と呼ばれる政治改革に着手します。
まず「什伍の制(じゅうごのせい)」を実施し、秦に住む家族でグループを作ります。5家族や10家族のようにグループを構成して、お互いを監視させるのです。もしどこかの家族が脱税などルール違反をした場合、連帯責任としてグループ全体が罰せられます。
さらに農家の家族は解体させられました。当時の秦は大家族制度で、兄弟に子どもが生まれても一つ屋根の下で同居していました。しかし農業の生産性が上がらず効率が悪いため、次男以下は未開の土地に強制移住させたのです。強引なやり方ですが、これによって戸数が増え、農地面積が拡大し、国家の税収も改善しています。
商法の変法は、伝統的な暮らしに急激な変化をもたらしたため、大きな抵抗もありました。
あるとき地方の長老が商鞅を訪ねます。長老は「(商法の変法が)厳しすぎるので、もう少し緩めてほしい」とお願いしました。
すると商鞅は「民の分際で支配者に文句をいうのはけしからん」とし、全員を処刑してしまいます。
褒めるなら大丈夫か?
恐怖政治を展開する商鞅に対して、文句をいう者は誰もいなくなります。しかし商鞅の政治が浸透すると盗賊はいなくなり、道に財布が落ちていても誰も盗まなくなりました。治安が劇的に改善したのです。
別の長老が商鞅と面会すると、今度は商鞅を褒め称えました。
「商鞅様のおかげで安心してくらせるようになりました。ありがとうございます」
と長老が言うと、商鞅はまた全員を処刑してしまいます。民の分際で政治を評価するとは、身の程を知らない不遜な態度である、というのが理由です。
つまり商鞅は、民衆が政治を批評すること自体を認めませんでした。
商鞅の思想は「愚かな民衆は、黙って支配されろ」というものだったのです。
商鞅の最後
商鞅の改革によって、西方の辺境に位置する三流国家だった秦は急成長を遂げ、戦国時代の主導権を握る大国へとのし上がります。商鞅を採用した孝公の信頼はますます強くなり、最高の位と莫大な財産が与えられました。
しかし孝公が死ぬと、今まで商鞅に恨みを持った貴族たちが反撃に出ます。でっちあげの謀反の罪を被せたのです。
他国出身の商鞅を助ける者は誰もいませんでした。商鞅は秦から国外への逃亡を図ります。
もう少しで国境へ着くところまで来たのですが、日が暮れたため宿で一泊しようとしました。すると宿の主人が通行手形の提示を求めたのです。
「商鞅様の命令で、通行手形を持っていない方はお泊めできません」と主人は言いました。
それでも粘る商鞅に対して「商鞅様の法は厳しいので、もし許可してしまうと、私が首をはねられてしまいます」と断ったのです。
このあと商法は捕らえられ、首都・咸陽まで連れ戻されます。そして車裂きの刑によって殺されました。
これは両手両足を縛り、馬車で引かせて身体を引きちぎる、という残酷な処刑方法です。
自分の成し遂げた改革によって、ある意味で“自分”に殺されてしまった商鞅。大きな皮肉が含まれたエピソードです。
悲運な最期を遂げた商鞅ですが、彼の存在がなければ、秦の躍進はあり得ませんでした。
強引な部分もありましたが、改革の方向性は間違っていなかったのです。
改革者は保守派によって抹殺されてしまうのは、いつの時代においても変わらない真理のようです。
※参考文献:
・浅野典夫『「なぜ?」がわかる世界史 前近代(古代~宗教改革)』学研プラス、2012年5月
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