2024年3月15日、中国社会科学院考古学研究所は、湖北省襄陽市で戦国時代の墓が174基発掘されたことを発表した。
剣や戦車なども埋葬されており、これまで発掘された中でも最大級の規模を誇る。
発掘された遺物には、他にも「馬具、木製品、玉器」などが含まれており、当時の生活や社会構造を知る上で極めて貴重な発見となった。
湖北省は戦国時代の楚の中心地であり、今回の墓地は楚王国の解明に大きく貢献する可能性がある。
湖北省で発見された「戦国時代」の墓地
この墓地は「柏庄墓地」と呼ばれており、昨年の夏に襄陽市の文物考古研究所がインフラ整備に先立つ調査を行った際に明らかになった。
合計176基の墓が確認された。
そのうち2基が漢代の墓で、残りの174基が戦国時代に掘られた竪穴式石室の墓であったことが判明した。
そのほか、500点以上におよぶ道具や武器、馬具などの遺物が出土している。
発見された墓の数と特徴
発見された墓は、その構造や副葬品から貴族や軍人の墓であると考えられている。
傾斜した墓道を持つ中型の墓が9基、その他に小型の墓が多数確認されている。
中型墓のうち最大規模のものは、墓道を含めた全長が9メートル以上、幅が5メートル以上に及んだ。
残りの小型墓は、全長が1.9メートルから2.5メートル、幅は0.5メートルから1.9メートル程度である。
中型墓と小型墓では規模と構造に明らかな違いが見られ、これは身分差を反映していると考えられる。
特に注目されるのが「M3号墓」と呼ばれる大型墓で、一辺が13メートルを超える正方形の形をしている。
これは柏庄墓地で最大の墓であり、中国の戦国墓としても最大級の部類である。
この「M3号墓」からは、青銅製の剣や盾、戦車などが副葬品として多数出土しており、当時の軍事力を示す遺物の宝庫となっている。
さらに墓の周辺には馬や犬の埋葬坑も確認されており、かなり身分の高い人物だったようだ。
なお「M1」や「M2」といった番号が付けられているのは、発掘調査の過程で墓を識別するためのコード名だ。
具体的には、最初に確認された墓に「M1」と番号が割り当てられ、次に発見された墓は「M2」、その次が「M3」という順になっている。
Mとは「Mudi」の頭文字で、中国語で墓の意味である。
この命名法によって、複数の墓を発掘する際に遺物や被葬者の関係性などを明確に記録・分析することができる。
特に今回のように100基を超える大規模な墓地の場合に、効果的な識別方法といえるだろう。
出土した遺物
柏庄墓地からは、前述したように500点を超える様々な文化遺物が発掘された。
主な遺物として陶器が400点以上、銅器が40点ほどで、半分以上が武器で残りが日用品だった。
日用品では、陶器の壺や鉢、漆器や木製の容器類が発見された。
これらは食事や貯蔵に使用されたと考えられ、当時の生活様式を知る上で重要な手がかりとなる。
その他、櫛(くし)や杖、楽器の一部とみられる青銅製品など、実に様々な遺物が含まれているのが特徴だ。
最大規模のM3号墓に眠っていた人物とは?
最大規模の「M3号墓」の壁面には、精緻な家形図も描かれていた。
この墓から見つかった「戦車」はほぼ完全な形で発見されており、被葬者は相当身分の高い武人だった可能性が高い。
戦車は2台分の部品が確認され、馬は3頭分の骨格が検出されている。
戦車は木製の車体とブロンズ製の部品から構成されており、組み立て可能な状態であった。
つまり、M3号墓の被葬者は「重装備の戦車部隊を指揮していた」と考えられる。
この人物が具体的に誰であったのかは、現在においては不明である。
古代中国の戦国時代とは
戦国時代は、一般的には中国における紀元前5世紀~紀元前221年までの、秦による中国統一に至るまでの約300年である。
この時代は多くの小国に分裂しており、それら国が絶えず争っていたことから「戦国」の名がついた。
しかしその一方で学問や思想が大いに発達し、春秋時代も含めると多くの著名な思想家や学者が現れている。「※諸子百家」
相次ぐ戦争により軍事技術も飛躍的に進歩し、鉄製兵器の使用や城塁の整備などが進んだ。
さいごに
柏庄墓地で、墓制や軍事をはじめとする戦国時代の遺物が多く発見されたことは大きな成果である。
特に楚文化および、中国南部地域の考古学的解明につながるだろう。
今後の調査と分析が大いに期待される。
参考 :
湖北襄阳新发现一处规模较大的战国时期楚邓县附属墓地 | 中国考古
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