毛沢東の子供たち

画像 : 紅衛兵の歓呼に答礼する毛沢東、1966年8月 public domain
中華人民共和国の建国者・毛沢東には複数の子供がいたとされている。
彼は生涯に4人の女性と婚姻・事実婚関係を結んだが、その女性関係は一様ではなく、比較的自由なものだったともいわれている。
公式記録ではおよそ10人の子供がいたとされるが、早世した者や記録が曖昧な者も多く、実際に何人の子がいたのか、正確な数は不明である。
今回は、その中でも「毛沢東の長男」として公式に認められている毛岸英(もう がんえい)の生涯と、その死をめぐる経緯について検証してみたい。
毛沢東の長男 毛岸英

画像 : 右が毛沢東の長男 毛岸英 public domain
毛岸英(もう がんえい)は、毛沢東とその妻・楊開慧(よう かいけい)との間に生まれた長男である。
1922年10月24日、湖南省長沙の湘雅医院で誕生した。
彼の幼少期は、中国共産党が創設から武装闘争に突き進む激動の時期と重なっていた。
父・毛沢東は共産党の活動に専念するため家を空けがちであり、家族は常に政治的な緊張と危険に晒されていた。
母・楊開慧は、単なる「革命家の妻」ではなく、自身も積極的に共産主義運動に関与した人物である。
彼女は毛沢東との間に三人の息子、毛岸英、毛岸青(もう がんせい)、毛岸龍(もう がんりゅう)をもうけたが、1927年の国民党による共産党弾圧(清共)以降、家族の生活は急激に厳しさを増していった。
毛沢東の不在中、楊開慧は子供たちを連れて湖南の板倉などを転々としながら逃避生活を送った。
その過程で三男・毛岸龍は病死し、次男・毛岸青は暴力を受けた後遺症で、知的障害を抱えることとなった。
1930年、楊開慧は国民党政権に逮捕され、拷問の末に同年11月、長沙で処刑された。享年29。
長男・毛岸英はわずか8歳で母を失い、その人生は早くも過酷な運命に翻弄されることになる。
この出来事は毛沢東自身にとっても深い衝撃を与え、家族にとって取り返しのつかない損失となった。
戦地を選んだ毛岸英
毛岸英は10代でソ連に渡り、モスクワ郊外のモニノにある国際児童院に入所した後、イワノヴォ国際児童院で学んだ。
その後、軍事政治幹部学校「エンゲリス学校」や、レーニン軍事政治学院などで訓練を受け、ソ連軍に見習いとして加わるなど、軍事と政治の双方に関わる教育を受けた。

画像 : ソ連軍軍服を着た毛岸英 public domain
1943年にはソ連共産党(当時のソ連共産党(ボリシェヴィキ))に入党している。
第二次世界大戦中には、ソ連の「大祖国戦争」に志願し、白ロシア戦線の部隊に配属された。前線での実習も経験したとされ、若くして厳しい戦場に身を置いた。
終戦後の1946年、毛岸英は中国に帰国し、延安や山西省での土地改革運動に参加したのち、中共中央社会部の部長・李克農(り こくのう)の秘書兼ロシア語通訳を務めた。
1949年10月には、後に「烈士の未亡人」となる劉思斉(りゅう しせい)と結婚している。

画像 : 妻の劉松林と毛岸英 public domain
1950年、朝鮮戦争が勃発すると、毛岸英は中国人民志願軍の司令部において、ロシア語通訳および機密秘書として従軍することになった。
この決定については、戦後になって「賛否両論があった」と伝えられている。
すなわち、一部では「最高指導者の息子を前線に送るのはリスクが大きすぎる」との声もあった一方で、毛沢東本人が「我が子といえども、ほかの兵士と同じく戦地に赴くべきだ」として出征を望み、その意向が強く働いたともいわれている。
1950年11月25日午前11時、毛岸英は北朝鮮・平安北道大榆洞にある志願軍司令部の作戦室にて、米軍機による爆撃を受け、戦死した。
享年28であった。
表向きには冷静を保っていたとされる毛沢東であったが、実際には深く悲しんでいたと伝えられる。
党中央にもすぐには報告されず、彼の戦死が公表されたのは後日になってからである。
この毛岸英の戦死をめぐっては、後年にかけてさまざまな憶測や論争を呼ぶこととなる。
毛岸英の死に関する酷い噂話
実は毛岸英の戦死については、長年にわたりある種の「噂話」が広まっていた。
その内容とは、
「彼は、戦場でチャーハンを作るために火を起こしたことで敵機に位置を察知され、空襲で亡くなった」
というものである。
中には「チャーハンを作るためのガスが引火して、爆死した」という話まである。
この話の出所とされるのは、志願軍司令部で毛岸英と共に勤務していた一部の関係者による回想録であったが、後年その記述には多くの誤りがあると批判されるようになる。
そして2023年11月25日、毛岸英の戦死から73年目にあたる日に、中国歴史研究院が公開した4分29秒の映像によって、ついにこの噂に対する公式な否定が行われた。
この発表では、毛岸英の勇敢な戦死を称えると同時に、こうした「チャーハン説」は最も悪質な中傷であり、烈士の名誉を汚すものだと断じられた。

画像 : チャーハン イメージ
「英霊は辱められてはならず、歴史は冒瀆されてはならない」と強調し、噂の出所とされる回想録の内容は具体的に否定された。
まず、当時の志願軍司令部には白米はなく、支給されていたのは殻付きの高粱米(こうりゃんまい)であった。
また、調理用の卵もなく、備蓄品はリンゴ程度。加えて、作戦室には火を使う調理器具も存在せず、室内にあったのは長い煙突のついた鉄製のストーブだけで、それで炒め物を作ることは不可能だったという。
この「チャーハン説」が巻き起こした影響は、政治的にも敏感な問題となった。
たとえば、2020年10月、ある料理系インフルエンサーがネット上で卵チャーハンのレシピを紹介したところ、「毛岸英の死を揶揄している」との批判が殺到し、最終的に本人が謝罪に追い込まれた。
また、2021年10月23日には、大手通信企業の中国聯通(れんつう)の地方支社が、チャーハンのレシピを微博(ウェイボー)に投稿したことで、政治的に問題視され、そのアカウントが一時停止処分となる事態も起きている。
このように、「毛岸英=チャーハン」という結びつきは、半ば風刺的に語られながらも、国家の歴史認識の問題へと発展している。
しかし、いかなる経緯であれ、毛岸英が命をかけて前線で職務に当たっていたことは紛れもない事実である。
彼の死は、情報伝達と作戦計画の要である司令部での爆撃によるものであり、いわば戦略中枢にいたがゆえの殉職だった。
「チャーハンを作っていたから死んだ」という荒唐な説が否定された今、大切なのは、毛岸英がどんな任務を担い、どんな覚悟で戦地に立ったのかという事実である。
彼の名誉は、その歩んだ道と命を落とした場所に、今も確かに刻まれているのだ。
参考 : 『毛岸英烈士逝世73周年 還毛岸英烈士清白』他
文 / 草の実堂編集部
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