中国の歴史を語るとき、しばしば登場する言葉がある。
それは「紅顔禍水(こうがんかすい)」である。
美しい女性が王を惑わせ、国を乱すという意味で、古くから中国の史書や文学に繰り返し登場してきた言葉だ。
実際、中国史には皇帝の寵愛によって一族が栄え、そして政局の変化とともに急速に滅びていった女性たちが存在する。
今回は前漢と唐の時代に起きた代表的な例を取り上げ、皇帝の寵愛がどのように一族の栄華と没落を生んだのかを見ていきたい。
趙飛燕・趙合徳 姉妹

画像 : 趙飛燕(ちょうひえん)public domain
前漢末期、皇帝の寵愛によって一族が頂点に立ち、そして皇帝の死とともに一族ごと転落した例としてよく知られるのが、趙飛燕(ちょうひえん)とその妹・趙合徳(ちょうごうとく)である。
2人は前漢の成帝(在位 前33〜前7年)の後宮で絶大な寵愛を受けた女性だった。
姉の趙飛燕は歌舞に優れた女性として宮廷に入り、その軽やかな舞い姿から「燕のようだ」と称されて寵愛を受けるようになる。やがて妹も後宮に入り、姉妹はともに皇帝の寵姫となった。
紀元前16年、趙飛燕はついに皇后に立てられる。
妹も昭儀という高位の妃となり、専用宮殿である昭陽宮を与えられるほどの寵愛を受けた。
皇帝の寵愛はそのまま一族の出世につながり、趙氏一族は後宮と宮廷の両方で強い影響力を持つようになる。

画像 : 趙合德『古今百美図』public domain
しかし、その栄華は長くは続かなかった。
成帝との間に皇子が生まれなかったことから、皇位継承をめぐる疑惑が広がることとなる。
この頃、皇帝の子が相次いで不審な死を遂げており、趙氏姉妹が皇子を排除したのではないかという疑いがささやかれ始めたのだ。
紀元前7年、成帝が突然死すると事態は一気に変わる。
新たに哀帝が即位すると、かつての成帝の側近勢力に対する大規模な政治的清算が始まったのだ。
官僚たちは哀帝に上奏し、妹の趙昭儀を「聖朝を乱し、皇帝の後継を断った」として強く弾劾した。
激しい追及の中で、成帝の急死をめぐる疑惑まで背負わされた趙昭儀は、やがて自ら命を絶った。
姉の趙飛燕は、哀帝の即位後もしばらくは皇太后としての地位を保った。
しかし哀帝が早世すると情勢は再び動く。
実権を握った外戚・王莽によって「宗室を乱した」として地位を奪われ、庶人に落とされた後、ほどなくして趙飛燕も自ら命を絶った。
かつて皇帝の寵愛を独占し、後宮の頂点に立った趙姉妹は、成帝の死から十年足らずの間に歴史の舞台から姿を消した。
そして権勢を誇った趙氏一族もまた、急速に没落していったのである。
楊貴妃

画像 : 楊貴妃 public domain
楊貴妃(ようきひ)は「亡国の美女」として知られている。
唐王朝の最盛期を築いた皇帝・玄宗が寵愛した妃であり、白居易(はくきょい)の長詩『長恨歌(ちょうごんか)』にも詠まれた絶世の美女だ。
楊貴妃は719年、蒲州永楽(現在の山西省永済付近)の出身で、もともとは玄宗の第18皇子である李瑁(りぼう)の妃であったが、やがて玄宗の寵愛を受けることになる。
そこで宮廷は一つの方便を用いた。いったん彼女を道士として出家させ、「太真」という道号を与えたのである。
これは玄宗の母・窦太后の冥福を祈るためという名目であった。
数年後の745年、楊氏は還俗して宮中に迎え入れられ、後宮でも最高位にあたる「貴妃」となる。
玄宗は当時、すでに60歳を過ぎていたが楊貴妃への寵愛は非常に深かった。
やがてその恩恵は一族にも及び、姉妹たちは夫人の位を与えられ、従兄の楊国忠(ようこくちゅう)は宰相として朝政の中心に立つようになる。

画像 : 楊貴妃献桃図(楊貴妃が玄宗皇帝に不老の桃を献じる場面)狩野探雪 Public domain
こうして楊氏一門は宮廷で大きな権勢を持つようになったが、その専横は次第に朝廷内外の強い反感を買うことになった。
755年、唐王朝を揺るがす大反乱が起こる。安史の乱である。
北方の軍を率いていた将軍、安禄山(あんろくざん)が、「皇帝の側近にいる奸臣を排除する」という名目を掲げて挙兵したのだ。
その背景には、以前から続いていた楊国忠と安禄山の深刻な政治対立があった。朝廷で権勢を振るう楊国忠は安禄山を警戒し、安禄山もまた失脚や粛清を恐れていた。
反乱軍は急速に勢力を拡大し、756年、玄宗は都の長安を捨てて蜀(現在の四川方面)へ避難する。
しかしその途中で、護衛の禁軍が反乱を起こした。
兵士たちはまず宰相の楊国忠を殺害し、その息子たちや近親者も次々と斬り殺した。
こうして楊氏一門はその場でほぼ壊滅してしまう。
さらに兵士たちは「乱の原因は楊貴妃にある」として彼女の処刑を求めた。
玄宗は当初これを拒んだが、兵たちの怒りは収まらなかった。
やむなく玄宗は側近の宦官に命じ、楊貴妃を仏堂で首を吊らせて処刑した。彼女はこのとき38歳だった。
この事件によって、宮廷で絶大な権勢を誇った楊氏一門は、わずか1日のうちに滅び去ったのである。
皇帝の寵愛が生んだ一族の栄華と没落
このように、皇帝の寵愛を受けた女性が宮廷で大きな影響力を持つことは珍しくなかった。
だが、その栄華はきわめて危ういものでもあった。
皇帝の寵愛によって一族が宮廷の中心へ押し上げられることもあれば、政権交代や反乱、宮廷闘争の中で一転して粛清の対象になることもある。
楊氏一門や趙氏姉妹は、まさにその極端な例である。
中国史に繰り返し現れる「美女」の物語は単なる恋愛話や逸話ではなく、権力史の一つの断面でもあるのだ。
参考文献 : 司馬遷『史記』班固『漢書』卷97上『旧唐書』卷51 后妃傳上 他
文 / 草の実堂編集部

























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