関羽千里行は珍道中だった
三国志で最も人気のある武将といっても過言ではない関羽は、ファンの間では畏敬の念を込めて「軍神」の名で親しまれ、現代では「関帝聖君」という名の神として崇められている。
その関羽の最大の見せ場の一つであり、ファンから特に高い人気を誇る名場面が「関羽千里行」である。
劉備の居所を知った関羽が劉備と再会するため曹操軍の将を斬りながら突き進む様は、ファンの目線で見ると関羽の劉備に対する忠誠心の強さに加え、たった一人で敵将を薙ぎ倒す姿に興奮させられる。
だが、冷静に振り返ると、現代風に言えばパスポートを忘れたのであれば取りに戻ってくれという至極当然な事を言っているだけの入国審査官を、急いでいるからそんな時間はないと斬り捨てるのは忠義でも何でもなく、ただの殺人である。
それを考えると本当に関羽がこのように理不尽な関所破りをしたのかと不安になるが、史実の三国志を読むと関羽が関所破りをしたという記述は一切なく、結論から言ってしまえば関羽千里行もフィクションである。
そして、関羽千里行のルートを辿ると、実は割と近くにいた劉備と再会するために関羽は見当違いな場所を走り回るという、とんでもない遠回りをしていたという事が発覚する。
フィクションの非現実的な部分や矛盾に言及するのは野暮ではあるが、今回は関羽最大の見せ場にしてフィクションだから許される、人斬り珍道中となった関羽千里行の道程を調べてみた。
関羽千里行の始まり
関羽千里行は曹操軍にいた関羽が、生死不明だった劉備が生きていると知った事から始まる。
劉備が袁紹の元にいる事が分かり、劉備の居所が分かったら去るという約束通り、関羽は許昌を出発して袁紹の元を目指す事になるが、袁紹の本拠地である冀州(北方)ではなく、何故か洛陽を目指して西に進む。
第一の関である東嶺関に到着すると、関羽を出迎えた孔秀から通行手形(パスポート)を見せるよう言われるが、フィクションという事もあって関羽は手形を持たずに出発していた。(フィクションなので曹操が通行手形を渡していれば後の惨劇は起きなかった…などと言ってはならない)
孔秀は手形がないなら「取りに戻って欲しい」と現代風に言えば入国審査官として至極当然の対応をするが、先を急いでいる関羽は押し問答を続けた末に孔秀を斬り殺してしまう。
一瞬にして関所破りに殺人という重罪を重ねてしまった関羽だが、気にする事なく洛陽へと向かう。
次に辿り着いた洛陽でも東嶺関と同じように通行手形の有無で韓福と揉めて、ここでも関羽は韓福を殺して関所を突破する。
このまま西進しても劉備のいるはずのない長安に着くだけで無駄足となるのは目に見えてるが、関羽はようやく自分が間違ったルートを進んでいる事に気付いたのか、東に戻って山東省の沂水関まで向かう。(日本人で中国の地理や距離をすぐに思い浮かべられる人は多くないため単純に文章だけ読んでいてもピンと来ないが、洛陽から沂水関まで636キロもあり、この時点で千里「約414キロ」を突破している)
沂水関で関羽は関所破りの捕縛に燃える卞喜の騙し討ちに遭うが、架空の人物など軍神の相手ではなく、彼も無惨に斬り殺されてしまう。
劉備と出会えるはずのないデタラメなルートを走り続ける関羽は、卞喜を斬った後はまたもUターンして河南省へと戻る。
次に向かった滎陽では関羽を歓待するふりをして焼き殺そうとした王植の企みが王植配下の胡班の密告によって発覚し、王植は関羽に斬り殺されてしまう。
王植を斬り殺した後、関羽は滎陽から北東に向かい黄河を渡ろうとするが、夏候惇配下の秦琪に止められ、ここでも秦琪を斬り殺す。
その後、関所破りと部下殺しの復讐に燃える夏候惇が現れ一騎打ちとなるが、仲裁に現れた張遼によって通行手形を渡され、関羽の無駄に遠回りかつ無駄に人を殺し続けた旅がようやく安全なものとなる。
関羽千里行の終結
旅の安全が確保され、黄河を渡って袁紹の領地に入ろうとする関羽だが、渡河直前で張飛が汝南にいると知り、袁紹の領地を目の前にして今度は南下する。
汝南で関羽は張飛と再会するが、張飛は関羽が曹操に降った事に激怒しており、関羽に襲い掛かる。
関羽が曹操に降っていたのは生きて劉備や張飛と再会する時が来ると信じていたからだが、張飛は関羽の話に耳を貸そうとせず、関羽は困り果てる。
だが、都合のいい事に以前斬り殺した秦琪の叔父である蔡陽が甥の復讐に現れ、関羽は自分がもう曹操の配下ではないという証拠に蔡陽を一撃で仕留める。
程なくして汝南の征伐に向かう事を口実に袁紹の元を離れていた劉備が現れ、ようやく三人が再会し、意味不明な迷走と多くの架空の人物が犠牲となった関羽千里行が完結した。
史実で見る三人の再会
ここまでが演義に書かれた関羽千里行の大まかな流れだが、史実で三人が再会するまでの流れは、劉備と張飛の足取りを追うと分かりやすい。
劉備と張飛は曹操に敗れて関羽と離れ離れになった後も行動をともにしており、一緒に袁紹の元に身を寄せている。
その後、劉備は袁紹の命で汝南に侵攻し、劉備と張飛が汝南にいると知った関羽は曹操に別れを告げて許昌を去ると、無駄な遠回りも無意味な人斬りもせず、まっすぐ汝南に向かって特にドラマもなく劉備、張飛と再会している。(余談だが、関羽が千里行の最後に斬った蔡陽は実際に汝南で劉備軍と戦って戦死した曹操軍の武将であり、千里行の犠牲者で唯一の実在する武将である)
なお、関羽が出発した許昌から劉備達と再会した汝南まで僅か140キロ程度しかなく、演義のように劉備の奥方を護衛しながらのスローペースな旅だったとしても数日(現代なら高速経由で2時間)もあれば辿り着ける「近場」だった。
それを無駄に遠回りして曹操陣営に無意味な犠牲を出しているのだから、フィクションとはいえ関羽の行動は「無駄が多すぎる」と言わざるを得ない。
関羽が迷走した理由
関羽サイドに立って言い分を考えると、劉備の居場所まで分かっていた史実と違い、演義で関羽の持っていた情報は劉備が袁紹陣営にいるという僅かなものであり、袁紹の領地を目指すのは決して不自然な事ではない。
また、当時は袁紹と曹操が黄河を挟んで争っていたため黄河を挟んだ国境付近は危険であり、最優先である奥方の安全を考慮して多少遠回りしてでも確実に渡れるルートを探すのも理解出来る。
それを考慮しても関羽の迷走は「遠回り」どころではなく、進路を引き返したなら許昌で手形を貰って通行の安全を確保すべきではと思ってしまうが、再三述べている通りこれはフィクションであるため、常識的な観点から目に付いた「ストーリーの綻び」を気にする方がナンセンスである。
史実ではそれほど活躍していないからこそ創作が作られやすい関羽
最後に、三国志演義の作者とされる羅貫中が何故このようなストーリーとして破綻した珍道中を描いたか考察する。
演義では見せ場の多い関羽だが、史実を見ると関羽に関する記述は少なく、世間がイメージしているほど活躍している訳ではない。
しかし、死後は神にされるなど関羽の人気は当時から絶大であり、三国志を題材にした小説を執筆しようとするのであれば、フィクションであっても関羽の活躍をもっと描きたいと考えるのは不自然ではない。
また、前述の通り劉備達の再会は史実では何のドラマもない、僅かな距離の旅だったため、関羽が迷走しながら関所破りをするというフィクションを盛り込むのは容易だった。
関羽千里行を読み返せば読み返すほどストーリーとしての「粗」が目立つが、いい意味でも悪い意味でも何もないただの旅を壮大な物語(珍道中)に昇華させた羅貫中の文才はさすがであり、現在ではゲーム、漫画、小説といった幅広い分野で新たな解釈とともに活躍する関羽の姿が描かれており、多くの三国志ファンを虜にしている。
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