三國志

袁紹とは【天下に最も近かったが好機を逃した男】

後漢を代表する名門袁家の御曹司

袁紹とは【天下に最も近かったが好機を逃した男】

※袁紹

数多の群雄が現れては消えた後漢末期、最も天下に近い男と目されていたのが袁紹本初(えんしょうほんしょ)である。

当代屈指の名門である袁家の看板によって人材が集まり、袁紹も人の上に立つに相応しい堂々とした容姿をしており、人格的にも人から慕われるなど天下人になるための能力は十分持っていた。

豊富な人材に加え、君主として相応しい器量を持ち合わせるなど袁紹は天下人への道を順調に歩んでいたが、袁紹は天下を取る事が出来なかった。

今回は、袁紹が天下人になれなかった理由を調べてみた。

逃し続けた好機

袁紹とは【天下に最も近かったが好機を逃した男】

※曹操孟徳

袁紹が天下を取れなかったのは官渡の戦い曹操に敗れたからというのが一般的に言われている。

歴史が伝える結果としてはその通りだが、官渡の戦いを含め袁紹には曹操に勝つチャンスがあった。

199年、徐州で劉備が曹操に対して反乱を起こす。

曹操は劉備と戦うため徐州に向かう準備を進めるが、自分が留守にしている隙に許昌を袁紹に攻められる事を心配していた。

曹操が危惧していた通り、袁紹が曹操のいない許昌を攻めれば曹操は本拠地を失う可能性もあったが、袁紹は息子の病気を理由に許昌攻めを見送ってしまう。(なお、許昌攻めを提案した田豊は子供の病気を理由に好機を逃した事に怒り、杖を地面に叩き付けて悔しがったという

袁紹が攻めて来ないと分かると、劉備攻めに集中出来るようになった曹操は一気に劉備軍を撃破する。

曹操に敗れ逃げて来た劉備を袁紹は保護するが、一人取り残された関羽は曹操に降伏する事になり、曹操軍の関羽の活躍が後の戦いで袁紹軍に打撃を与える事になる。

致命的な選択ミス

200年、袁紹は曹操との一大決戦を決意するが、家臣の意見は大きく割れていた。

沮授田豊が持久戦を主張する一方で、郭図審配は早期に攻めて短期決戦で決着を着けるよう主張するなど、家臣の意見は真っ向から対立するが、袁紹が採用したのは郭図と審配の短期策だった。

後の歴史を知っている身からすると「用兵に長けた曹操と真っ向から当たるのは得策ではないから徐々に戦力を削りながら持久戦に持ち込むべき」という田豊の策が正しかった事になるが、袁紹は郭図の讒言に加え、田豊の諫言に嫌気が刺していた事もあって「軍の士気に影響を与えた」と田豊を投獄してしまう。

曹操不在の許昌を攻める策や、兵糧も戦力も袁紹に劣る曹操に対して持久戦に持ち込むよう提案するなど、曹操にとって嫌なところを突き続ける田豊は正に天敵のような存在だったが、その「天敵」がいない事は曹操にとって幸運だった。

そして、勝てるはずの策を採用せず悪手ばかり選んだ袁紹の選択ミスも致命的だった。

官渡の敗戦と内部分裂

袁紹とは【天下に最も近かったが好機を逃した男】

※官渡戦況図 wiki(GFDL)

袁紹軍の主力武将である顔良が、白馬の戦いで一時的に曹操の配下となっていた関羽によって斬られるなど、局地的な戦闘では苦戦を強いられた袁紹だが、数の力で盛り返して曹操を官渡城まで追い詰める。

しかし、日頃の冷遇によって袁紹に見切りを付けていた許攸が、最重要機密である烏巣の兵糧庫の情報を曹操に暴露し、兵糧を失った袁紹は撤退を余儀なくされる。

曹操を撤退寸前の状態まで追い詰めたところから、まさかの大逆転負けを喫したのも痛かったが、もっと痛かったのは家臣の内部分裂だった。

官渡の戦いで敗れたとはいえ袁紹軍は兵力、領地ともに依然として曹操軍より上であり、巻き返すだけの余力は十分あった。

しかし、家臣が互いに敗戦の責任を押し付け合うなど組織として崩壊した状態となり、敗戦のショックで疑心暗鬼となった袁紹は「田豊は牢獄の中で笑っているに違いない」という理不尽な理由で田豊を処刑した挙げ句、袁紹自身も官渡の敗戦後に領地で起きた相次ぐ反乱の鎮圧に忙殺され、心身ともに疲弊して病気になってしまい、202年に病没する。

天下に最も近いと言われた男の最期は、あまりに淋しいものだった。

袁紹に付き纏う「if」の世界線

官渡の戦い直前の勢力圏(赤:袁紹青:曹操)wiki(c)Jonathan Groß

田豊による必勝の策を却下した事に加え、許攸の裏切りによって敗戦を招くなど、袁紹は戦略の判断や家臣の統率に於いて致命的なミスを犯している。

但し、官渡の戦いも兵糧庫が襲われる事がなく、曹操軍の兵糧切れを待っていれば勝てていたので、数少ない逆転のチャンスを活かした曹操が見事だったと言うしかない。

官渡の戦いから程なくして病没した事もあって袁紹は「敗者」として人生を終えたが、前述の通り袁紹には依然として当代随一の戦力があったため、軍を立て直した袁紹が再度曹操と戦っていればどうなっていたかというのはファンの誰もが思う三国志の「if」である。

演義では史実に於ける記述が乏しい倉亭の戦いで、袁紹が完膚なきまでに叩きのめされる事で「if」に対する演義なりの答えを出しているが、袁紹に曹操のような決断力があれば間違いなく天下を取れていただけに、数少ない失敗(その失敗が致命的だったのも事実だが)によって「無能」扱いされるのが悔やまれる。

官渡の戦いのイメージが強すぎるため、袁紹には悪いイメージが付き纏うが、マイナス面だけで評価するのはフェアではない。

袁紹の生涯を辿ると十常侍討伐に反董卓連合、そして官渡の戦いと時代を動かす戦いの片方におり、正に189年以降の中国の中心的存在といっても過言ではない。

また、政治面に於いても有能で、領地で善政を敷いた袁紹の死を惜しむ声は曹丕以降の魏の時代まで続いた。

中国統一こそ出来なかったが、袁紹は武将としても政治家としても優秀であり、同じ袁家の出身でも救いようのないダメ人間だった袁術とは対極に位置する存在だった。

勝利が目前まで迫っていた官渡の戦いで波乱なく勝っていれば、袁紹はどのような人生を送っていたのだろうか。

三国志ファンの誰もが気になる世界線であり、想像の世界線で好きなだけ活躍させられるのが袁紹の人気の理由である。

 

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