影の薄い魏の皇帝 曹丕
いくつもの時代の転換期がある三国時代だが、魏は史上初の「禅譲」という形で建国されており、魏の初代皇帝である曹丕は「歴史を作った皇帝」としてその名を残している。
正史が伝える曹丕は、父親である曹操の血を濃く受け継いだ文武両道の人物として描かれているが、曹操の功績が偉大すぎた事もあって、1800年後の現代に於いて曹丕の評価は低いものになりがちである。
今回は、正史に描かれた曹丕の人物像に迫る。
兄達の死によって嫡男へ
名前が残っている男子だけで25人という超子沢山で知られる曹操だが、曹操の後を継いだ曹丕は長男ではなかった。
曹操と卞氏との間に出来た男子としては確かに長男だが、曹丕には曹昂(そうこう)と曹鑠(そうしゃく)という二人の兄がいた。
いくつかの例外があったものの、当時の中国は世継ぎに年長者が優先される時代であり、事実上の三男である曹丕は曹操の後継者として三番手に過ぎなかった。
このまま三男として燻った人生を過ごすと思われた曹丕だが、思わぬところから転機が訪れる。
兄の曹昴と曹鑠が相次いでこの世を去り、曹丕が兄弟の年長者となる。
もっとも、年長者として曹丕がすんなりと曹操の後継者に決まった訳ではないのだが、曹操が後継者を選ぶ理由の一つになったのも事実なので、兄の死は曹丕の人生に大きな影響を与えた。
戦乱に乗じて妻を手に入れる
曹操の嫡男として育てられた曹丕は父と同じく文武両道の人物とされているが、武将としての実績はあまり知られていない。
11歳(197年)の時から父親に従軍していたと書かれており、戦場でそれなりに経験を積んでいた事は想像出来るが、周囲が優秀すぎた(自身が最前線に出て戦う必要も献策する必要もない)事と、曹操が軍を息子に任せず晩年まで自分で軍を指揮していたため、曹丕が武功を立てる機会はほぼ皆無だった。
宛城の戦いで兄の曹昴が戦死し、曹丕は曹操とともに命からがら生き延びた事は色々な意味で歴史のターニングポイントとなっているが、それ以外に記録が残っている従軍経験で目立った記述があるのは、袁紹没後の曹操の袁家攻めである。
袁家の本拠地である鄴を攻め落とした曹操だが、宿敵の本拠地を落とすとともに、曹操としては絶対に見逃せない「目的」があった。
曹操にはどうしようもないほどの人妻趣味があり、河北一帯に絶世の美女として知られていた袁熙の妻である甄氏(甄姫:しんき)をかねてから自分のものにしようと狙っていた。
鄴を陥落させた曹操は一目散に甄氏の元へ向かうが、曹操の人妻趣味を知りながら曹操を出し抜いて甄氏を手に入れた命知らずがいた。
そう、曹丕である。
曹操の河北攻めで大した実績を挙げていない曹丕だが、父親である曹操よりも先に屋敷に入って甄氏を手に入れる大金星を挙げる。(そして、これが曹丕の人生に於ける最大の「戦果」となった)
本気で甄氏を欲しがっていた曹操としては不本意ながらも曹丕に甄氏を譲るが「今回の戦いで最も得をしたのは奴だ」という言葉の通り、甄氏に対する未練は隠そうともしていなかった。
後継者争いに勝って皇帝へ
その後も目立たないながらも曹丕は曹操の元で帝王学を学び、副丞相として曹操の留守を任されるようになる。
その一方で曹操は後継者を明確に決めておらず、曹丕と曹植の間で後継者争いが起きるが、袁紹と劉表を例に出して年長者を選ぶよう進言した賈詡(かく)のアシストによって曹丕が正式に曹操の後継者になる。
220年に曹操がこの世を去ると、後を継いだ曹丕は献帝に禅譲を迫る。
(形式的なものとして)複数回辞退した後に献帝の禅譲を受け入れると、曹丕は魏の初代皇帝となる。
曹丕の政策として知られているものに陳羣(ちんぐん)のアイデアを採用した「九品官人法」というものがある。
地方ごとに人事採用を配置して、採用された者を一品官から九品官までランク付けして朝廷に召し抱えるものである。
一言で言ってしまうと地方の有力者の推薦ではなく国(魏)で優秀な人材を雇えるようにしたもので、有力者が家柄に箔を付けるため朝廷に送り込んだ使えない身内ではなく、国の力になる優秀な人材を自分達で探せるようになった事は「曹丕の存命時に於ける」魏の更なる国力増強に貢献し、隋の時代に廃止されるまで300年以上続いた。(見た目の上では有能な人材を実力主義で選んでるように見えるが、採用側も人間であり、曹丕の死後は賄賂が横行するなど次第に機能しなくなっていった)
なお、政治面は曹操時代からの優秀な人材の協力によって破綻なく行われた一方で、曹操存命時も実績を挙げられなかった軍事面はやはりさっぱりで、呉に三度侵攻するが、いずれも失敗に終わるなどいいところがなかった。
魏の終わりの始まり
魏を建国して天下を我が物にする勢いだった曹丕だが、三度目の遠征から戻った直後の226年に病となり、そのまま病死する。
即位から僅か6年後の死であり、享年40歳と在位同様短い生涯だった。
曹丕の後を継いで曹叡(そうえい)が二代目皇帝となるが、曹叡も早死にしてしまい、8歳で即位した三代目皇帝の曹芳以後は「皇帝が皇帝として機能しない」時代となる。
軍事面はともかく、政治面は破綻なくこなしていた曹丕が孫権のように長生きしていれば問題なかったが、皇帝が相次いで早死にして子供が即位したとなれば話は変わって来る。
魏の皇帝の相次ぐ早世は不運としか言いようがないが、8歳の子供である曹芳に政治を行うのは不可能であり、魏は皇帝よりも官僚が権力を持つようになる。
そして、曹叡の死後台頭した司馬懿(しばい)によって魏は乗っ取られ、後漢末期同様皇帝がお飾りの存在となる。
本来なら皇帝を補佐すべき曹丕の兄弟だが、曹丕の神経質な性格が災いして身内を遠ざけており、それが国を大きく弱体化させていた。
自分と合わない者を処罰しようとしたり、過去の恨みを即位した後まで覚えていたりするなど性格に難があったのは事実だが、曹丕の死が魏に与えたダメージは世間が思っている以上に大きいものだった。
あまり語られる事のないifだが、曹丕が長生きして司馬一族の台頭を許さない世界線はファンとして一度は見てみたい世界線である。
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