「天下三分の計」によって大陸に魏・呉・蜀の三王朝が鼎立し、英雄たちが覇権を競って激戦を繰り広げた歴史ドラマ『三国志(史実)』および『三国志演義(小説)』。
作中には千を超えるキャラクターが活躍しますが、そこには漢民族だけでなく異民族も多数登場。物語に彩りを添えています。
名前からして一風変わった、彼らの強烈な個性が記憶に刻み込まれているファンは少なくない筈……そこで今回は異民族武将の俄何焼戈(がか しょうか)について、小説と史実の違いを調べてみたので、紹介させて頂きます。
俄何焼戈はフュージョン(餓何+焼戈)の産物
俄何焼戈は中原の西方に蟠踞していた羌(きょうorチャン)族の首領ですが、史実では餓何(が か)と焼戈(しょう か)という二人の名前を、小説の作者が「語呂がいいから」とでも思ったのか、フュージョン(合体)させてしまったようです。
※フュージョンに際して名前がちょっと変わったようで、餓何のガは俄と表記されており、小説の作者が写し間違えたのか、あるいはちょっとオリジナリティを出したかったのかも知れませんね。
小説・史実ともに生年は不詳ですが、正史『三国志(魏志 郭淮伝)』によれば西暦247年(魏では正始八年、蜀では延煕十年)没となっています。
それではさっそく、小説(俄何焼戈)と史実(餓何&焼戈)の違いを比較してみましょう。
小説『三国志演義』の俄何焼戈
時は正始八247年、蜀の姜維(きょう い)が北伐(蜀より北に位置する魏の征伐)を行う際、羌族に援軍を要請しました。
要請を受けた羌族の迷当大王(めいとうだいおう)は、配下の俄何焼戈に五万の兵を与えて先鋒とし、自らも出陣。
敵襲を知った魏の陳泰(ちん たい)は蜀と羌族を同時に相手せず、まずは羌族から倒すべく、偽りの降伏を申し出ました。
戦わずして勝つこそ最上……実に幸先がよいと油断した俄何焼戈は、まんまと陥穽(落とし穴)へ誘導されてしまいます。
最早これまで……生きて虜囚の辱めを受けるよりは、と俄何焼戈は自決し、迷当大王も捕らえられてしまったのでした。
陳泰は迷当大王の降伏を受け入れ、蜀軍に対する工作員として姜維の陣地へ派遣します。
まだ迷当大王を味方だと思っている姜維が彼らを陣中へ招き入れたところ、陳泰と示し合わせて蜀軍を内部から攪乱。姜維は敗走の憂き目を見るのでした。
史実『三国志』の餓何と焼戈
一方の史実だと正始八247年、餓何と焼戈は羌族の同胞である伐同(ばつどう)、蛾遮塞(がしゃさい)、治無戴(ちむたい)と連合で魏に対して叛乱を起こしました。
蜀の姜維はこの混乱に乗じる形で北伐の兵を起こしており、小説とは主客の関係が逆になっています。
ところで迷当大王はと言うと、彼らに先んじること7年前(正始元240年)に姜維の北伐に呼応するべく要請を受けて兵を挙げたものの、魏の郭淮(かく わい)によって鎮圧されており、その後は登場しません。
また、大王という称号も小説のオリジナル設定で、迷当もまた羌族の一首領という立場だったそうです。
さて、話は戻って餓何と焼戈らを待ち受ける魏の大将は小説と違って郭淮が務めており(そもそも陳泰はこの戦に参加していません)、諸将に対して「姜維と羌族のどちらを先に討つべきか」を諮りました。
諸将は「羌族は数こそ多いが烏合の衆。先にこれを蹴散らしてから、難敵に当たるべきです」「また、叛乱の主導権は羌族にあり、これを蹴散らせば精鋭を率いる姜維も、また時を改めようと撤退するでしょう」などと進言します。
しかし、郭淮は「それだと、蜀は精鋭を温存したままで、蹴散らされた羌族も再び結集し、ほとぼりが冷めれば何度でも叛乱を起こすだろう。ここはやはり姜維を撃破し、羌族の叛意を削ごう」と決定。
そんな郭淮の読みは見事に当たり、姜維が率いる精鋭の蜀軍を敗走せしめると、羌族たちはたちまち戦意を失って右往左往します。
「こらっ、乱の主導はあくまで我らぞ!盟友を当て込んでいてどうするか!」
餓何と焼戈は必死になって将兵を鼓舞するものの、あっけなく味方は総崩れ。一か八かの一騎討ちを申し込んだものの、郭淮によって両将とも討ち取られてしまったのでした。
「……退け、退け……っ!」
蛾遮塞と治無戴は残った兵を掻き集めて命からがら戦場から撤退し、伐同は混乱の中で消息不明となり、その後は登場しません。
エピローグ
生き延びた蛾遮塞と治無戴は餓何と焼戈、そして伐同の仇討ちとして翌正始九248年にも蜂起しました。
一時は武威(現:甘粛省)を包囲した治無戴でしたが、別動隊の蛾遮塞らが郭淮によって撃破され、消息を絶ってしまいます。
「おのれ郭淮め、蛾遮塞までも!」
血気に逸って郭淮の罠に引き込まれ、又しても惨敗を喫します。
「……最早、これまでか……」
さんざんに追い立てられた治無戴は姜維の元へ逃げ込み、蜀に臣従することとなりますが、その後どのように活躍し、どのような最期を迎えたのかについては記録がありません。
かくて姜維の北伐と羌族の叛乱は失敗に終わってしまいましたが、その後、ブレーキ役であった費禕(ひ い)が暗殺されると、タガの外れた姜維は大規模な北伐を繰り返し、やがて蜀の国力を衰退せしめるのでした。
※参考文献:
陳寿『正史 三国志 全8巻セット (ちくま学芸文庫)』1994年3月1日
井波律子『三国志演義 全7巻セット (ちくま文庫)』ちくま文庫、2003年8月1日
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